先日、ニート祭りとかいう変なイベントに行ってきた。
到着が少し遅れたので、後半のトークライブのみの参加となった。
以下パネラーの方々
トークテーマは「ニート・ひきこもり的"感性"を活かせ」。
これはまさに僕が1年半前、ニート同士で何か成功モデルを作ろうと思い立った時の発想であり、今も常々感じているテーマだ。何か新しいヒントになるんじゃないかという期待を持って参加してみたわけだ。
本当に無理しなくてもいい?
仲さんが言っていた、「学校では『切り替えろ』とよく言われるけど、人間そんなに上手くできてない。エンジンのように段々やる気になったり時には冷えたりしても良いはず」という言葉自体は納得できる。ブラック企業で潰されそうになってる人へのよくあるメッセージだ。
その後の流れで「社会全体が敵だ」みたいな雰囲気を雨宮さんが作っていたけど、それが僕にはよくわからないところだ。たまたま恵まれすぎているだけなのかもしれないけど、僕の周りには、働いてないことを全否定する人はいないし、自身も若い頃5年ぐらいニートだったという人が結構いたりする。
そういう意味では、変に外の世界に対してレッテルを貼るよりも、少しでも多くの世界を知ることのほうが建設的だろう。phaさんがよく言うように、「逃げてもいい」んだけど、攻めては逃げるを何度も繰り返すことでしか、自分の心地よい場所なんて見つからないんだと僕は割り切っている。
「リア充氏ね」が痛い
雨宮さんはfacebookにおける「自分価値あります」自慢がウザい、という話を熱心に語っていて、それに対して大きくうなずいている参加者もいて多分盛り上がってたんだけど、なんとなく僕は上の空だった。
まあ確かにそういう人はいるし、無理してそう振る舞って疲れてる人も実際いるんだろうけど、だからといって僕はどうも思わないなあ、と。ましてや「リア充」に対して「こちら」という表現を使って壁を作る意味は全くわからない。自分が生きる領域をわざわざ自分で狭くする必要がどこにあるんだろうか。
新しい人と会ったり勉強したりすると、世界が広がる分、今までわかってるつもりでいた事が全て曖昧になってくる。これは最近僕自身に対して思ったことなんだけど、「何かと定義付けする人は大体間違っている」が当てはまる人は割と多いのかもしれない。
もしかしたら「リア充」と思われていた人が本当は重大な闇を抱えているかもしれないし、自分だって逆に誰かから疎まれているのかもしれない。やることが無くて、たまにPCのデスクトップを眺めるだけの時間を過ごしている僕からすれば、こういうイベントに参加したりアニメやゲームに夢中になってるニートは十分、充実しているように見える。
昭和人間は発達障害
面白い話もあった。
二神さんの早稲田大の同期は大手企業を定年退職して、今は月50万円も年金を受け取っているようだが、使い方がわからず空虚な日々を過ごしているそうだ。そこで二神さんが一人100万ずつ用意させて競馬に連れていったところ、全額トバしたのにも関わらず皆清々しく笑っていた、というエピソードを語っていた。
彼が言っていた「昭和の人間は皆エコノミックアニマル。現代の人からすれば発達障害のようなもの」という言葉は随所から批判が来そうだけど、彼自身が御年70を超える、まさに「昭和の人」だから、上記のエピソードと相まって余計に愉快だ。
phaさんはカリスマというか仏
phaさんは常にパネラーの言葉に対して的確に返答していて、やっぱり頭の良い人なんだと実感したけれど、彼の本当の凄さは、話が通じてないような人もちゃんと受け入れる、その懐の深さというか寛大さなんだと思う。みんなが彼を好きになる理由がよくわかった。
まとめ
上にも書いたけど、社会が厳しいとか体育会系人間が悪いとか、ネガティブに考え過ぎだと思う。好きなものがあるならそれを突き通せば良いのに、下手にリア充への憧れがあるなら気になってしまうのだろうか。
人を気にし過ぎるのは優しさの一種だとは思うけれど、phaさんが言うように「相手も自分と同じダメなヤツなんだ」という意識を持って、もっとみんな軽く生きればいいのにと思う。誰よりも冷めててテキトーに生きてる僕が言うとちょっと胡散臭いかもしれないが。
というかイベント云々より、参加者同士でもっと話してみたかった。帰りに見知らぬ人と少しだけ話せたけれど、結局連絡先も聞いてないし名前も忘れてしまった。こういう一期一会の切なさは、多分そんなに良いもんじゃない。
— ラマ (@pacstrap) 2016, 2月 10
次はもっと自分から声をかける努力をしてみよう。 次回開催時まで東京で生き残れているかわからないけど…。