ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

全部捨てたら当事者意識ってやつがちょっと見えた

会社の研修とかでよく使われる「当事者意識」とか「ジブンゴト」とかの話。

もう7年も前にこんなことを書いた。 neetwork.hatenablog.jp

当時は当時なりに考えて答えを出してみたけど、最近ちょっとアップデートできた気がしたので書いてみる。

まさかの起業

この1年フリーランスとしてのんびり暮らしつつ、転職活動もなんとなく続けていた。20代の頃のような謎の情熱を持って取り組める仕事は無いかと、一応探すには探していた。

が、燃え尽き症候群なのか精神的な老化なのか、本当にやりがいを感じられると自信を持って言える仕事は全然見つからなかった。もう長野かどっかの田舎の一軒家で犬でも飼って、最低限の銭を稼ぎつつ穏やかな余生を過ごそうかと、半ば本気で考えたりもした。

そんな折今年の5月だったか、久しぶりに前職の後輩から「起業しようとしている人がエンジニアを探しているので会って欲しい」との連絡があった。

これまでスタートアップ企業とカジュアル面談をしたり立ち上げフェーズのチームを手伝ったりする中で、「起業、起業」と意識だけは高いが、事業アイデアが微妙だったり途中で諦める「自称起業家」を数多く見てきたので、あんまり期待もせず、とりあえずただの飲み会のつもりで会ってみることにした(随分と偉そうだ)。

実際に会って話をしてみると、革新的なアイデアこそ無いもののこれが大変気持ちの良い人物だった。その場で意気投合!とまではいかないまでも、「コイツとなんか色々やってみるのも面白そうだ」という自分の直感に従い、チームが結成された。

業務委託の仕事を減らし、ドトールの安いコーヒー1杯だけで何時間も顔を突き合わせて議論を重ねる日々を過ごし早4ヶ月。現在はほぼ毎日朝から晩まで議論したりプロダクト開発を進めながら、資金調達の準備をしている。来週にはいよいよ役所に届け出を出しついに法人になる予定だ。

本当の当事者に当事者「意識」は不要

家賃をギリ払えるレベルまで収入は激減し、人間的な生活も破綻しかけている。背水の陣に追い込まれた(追い込んだ)わけだが、この焦燥感こそ、自分がずっと求めていたものなんじゃないかと思った。

もちろんただプレッシャーを感じたいマゾ気質というわけではない。この戦況をどうにかできるかどうかが全て自分次第であるという、ある種の全能感のようなものだろうか。これが大変に心地が良い。苦楽を共にする相棒がいるということも謎のやる気に繋がっていて、これが本当の「チームワーク」ってやつなのかなとも思う。

つまり結局のところ、責任やらお金やら人生やら、何か大きなものを本気で背負う覚悟が無いと当事者ってやつにはなれないのではないか。

一般的な雇用契約では、従業員にそんなものを賭けさせることはできない。だから会社が社員に課す「当事者意識」なんてものは、本来の言葉の定義からしても矛盾している(というのは流石に言い過ぎだろうか)。

逆に本当の当事者であれば、当事者「意識」なんて言葉を掲げる必要すら無いとも言える。これまで僕がその単語に対して一度も腑に落ちなかった理由が少しわかった気がした。

再びニート

会社に勤め始めてニートじゃなくってからもブログのタイトルを変えなかったのは、普通の社会人として落ち着くことへの抵抗と、あのモラトリアム期間を忘れたくなったからだが、ただ夢を語り、何の価値も生み出していない今の僕はニート同然だろう。8年ぶりの回帰ということでなかなか感慨深い。

6月からこの活動を始めたが、実は既に何度も方針転換している。つい先日もまた方針が少し変わり、全く順調とは言えない。おそらくこのままでは投資家から資金は得られず、背水の陣どころか片足が浸かっているような状況だったりする。

これからあと数ヶ月後、ニートを脱しているのか、はたまた完全に濁流に流されているのか。「意識」する余裕なんて全然無い今こそ、まさに「当事者」であると自信を持って言えそうだ。