ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

卒業ラッシュ

僕が入社して以来メンバーの大半が入れ替わってしまったが、最近、僕より後に入社した人が初めて辞めた。採用こそ関わらなかったものの、自分が仕事を教え、お互いに悩みも言い合いながら1年過ごしてきた関係ということもあって、辞めると聞いた時は納得は出来ていてもなかなか辛かった。

彼は人と向き合うことに非常に長けている人で、逆にそれがアダとなって最初の頃は軽いいざこざも起きていたが、最終的には社長以外のメンバーの関係はとても良いものとなった。僕と同じように人生に対してバカ真面目に考える人間だったというのも理由としてあるが、僕の生涯でこんなにも他人を気にしたり気にされるような経験はこれまで無かったので驚いている。友達とはこういうものなのかという感覚がこの歳になって初めて自分の中に芽生えた気がする。

そんな密度の濃い人間関係を教えてくれた彼が辞めた矢先、僕の唯一の同期の退職が決定した。

自分本位で融通の効かない子ではあるが、僕にとってはこの会社で一番長く時間を共にしてきたメンバーだ。お互い初めての会社で右も左もわからない状態であるにも関わらず、先輩がバタバタと辞めてしまってさあどうしようという局面を一緒に考えて乗り切り、一方で会社を良くするためには社長に変わってもらわないといけないと色々奔走するも、結局何も変えられない無力感を一緒に味わってきた仲だ。

僕らが期待した会社には出来なかったが、不思議と後悔は無いし、多分彼女もそう考えている。「やれることはやった」とまでは言えないけど、お互い次のステップに進むための大事な踏み台としての経験は積めたと確信しているからだろう。これからもそれぞれの階段を見せつけ合う仲でいられたら素敵だ。


これまで学校を卒業したり部活を引退したり、何度も別れは経験してきたはずだが、それとは何か違う。やっぱり密度だろうか。週40時間以上同じ空間で顔を合わせて、仕事という緊張感を共有していると、趣味でやっていた部活動とはレベルが違う共同体意識みたいなものが生まれていたように感じる。そしてそんな場所が心地よいと思っている自分に気づき、少し笑えてくる。

以前は「緩い人間関係の中で、フワッと気ままに生きていければいい」なんて考えていたのに、今は「仕事の中でお互いぶつかりながらそれでも尊重し合う関係」に憧れたりする、熱い人間に成り下がってしまった。もういい加減『ニート』とは名乗れそうも無いな。

そろそろ何かをやりきってみないと

転職活動歴1年

お世話になった会社の先輩が次々と辞めていったのは去年の今頃だっただろうか。僕には明確な目標があったわけではないが、「1年後は自分もここにいないだろうな」と漠然と考えつつ、転職サイトに登録したり履歴書を用意したり面談に行ったりと、転職活動的なことを始めたのも同じタイミングだったと思う。

本格的な「面接」こそ少ないものの、カジュアルな「面談」ならこの1年間で40社ほど受けてきた。幸いエンジニア業界は未だに売り手市場ということもあって、初回のカジュアル面談だけなら簡単にアポを取れる。しかも勢いのある会社ほどエンジニア採用に力を入れてるようで、そこそこ有名なベンチャー企業のCTOと直接話す機会もたくさんあった。

ただし内定をもらえるかどうかとは全く別の話だ。スキル面はともかく「自分は何を目指したいのか」という部分がフワフワした状態では箸にも棒にもかからないといった感じで、順調に進んだ選考はほとんど無い。

「何もやりきってない」

先日とある上場企業の最終面接で、「君はこれまで何1つやりきっていないよね」と言われた。結果はどうであれ、自分の中で1つ1つやりきっていけば自ずと進みたい道は見えてくるはずだ、と。

尤もな指摘だし、そうやっていつも逃げてきたズルさに本当は自分でも気付いていたと思う。でもこれだけ真正面からダイレクトに言われると僕としては珍しく悔しさを感じたりもしていて、なかなか良い機会だった (案の定、その会社は不採用)。

そこで今は何を「やりきる」かを考えている。

元々転職活動を始めたのは環境を変えたいからだった。エンジニアとして技術面の相談ができる先輩や同僚が1人もいない状況がずっと続いていて、このままでは他の場所で食っていけないんじゃないかという不安が根本の動機だ。

自分が出ていくという選択肢を一旦置いておくとすると、まずは自分よりも経験があって技術面で優れているエンジニアを入れないといけない。デキる人は会社の将来性とか理念を重視するから、人を納得させられる事業計画が無いといけない。今の社長では全く頼りにならないので、他に信頼できる事業統括役も必要だ。何なら社長自体を交代させる動き方もあるかもしれない。

これまでたくさんの会社の問題点を目にしつつも「なかなか難しいな」で済ませていたけど、現状維持する程の意味のある会社でも無いし、もっと自由にやってみて良い気がしてきた。

こうやって奔走した結果、解雇されたり会社が無くなったら、流石に「やりきった」と言えるのかもしれない。

時計を捨てる

無駄な時間?

今更あえて言うまでもなく乗り換え検索アプリは非常に便利なもので、効率の良い乗り換えのためにはどの車両に乗れば良いか示してくれるし、遅延が発生すれば再検索をかけて、何時に目的地に到着できるかという未来も教えてくれる。無駄な待ち時間を減らし、時間を有効に活用するための有用なツールだ。

と思っていたんだけれど、最近それが腑に落ちない。そもそも『無駄な時間』について考えてみると、生きているだけで全部余暇のようなものだという感覚があるし、電車待ちの時間を多少減らしたところで焼け石に水…とはちょっと違うけど、無駄かどうかの線引きなんてそう簡単に出来そうにないと思う。

極端な話、『無駄な時間』だと決めつけるから時間が無駄になっているのでは?と考えてしまうのだけど、この辺りは「趣味が多いから時間はいくらあっても足りない!」みたいな人には全く共感してもらえないんだろう (僕は時間が無いなら無いで諦められる程度の趣味しかもってないので「時間はいくら消費しても余る」) 。

ビジネス的には「無駄な作業時間を減らして業務を効率化」することは絶対的に正義だし、それによって余った時間やお金を使って別の価値を生み出すことで人類は進歩してきたんだろうけど、僕個人のレベルとしては次に踏み出したい一歩がもう何年も無い状態なので、この期に及んで何かを効率化する必要も無さそうだ。

時間縛り

会社が何時に始まるから朝は何時に起きて何時に家を出て何時の電車に乗って…みたいな逆算をして効率的なスケジュールを立てることを一般的には求められる。それはもう小学生の頃から教え込まれて、日本人はとくにそうなんだろうけど、この先ずっとそれが真理であり続ける。でも求められたものに応えなきゃいけないというのは何となく窮屈だし、もっとだらしなく生きたいと思う。

なのでこれからは細かい時間を意識しないように暮らしてみることにした。

とりあえず部屋で目立つ所にある掛け時計は片付ける。乗り換え検索アプリは経路と大体の所要時間を調べるためだけに使い、外出する時間を分単位で決めるようなことも辞める。最低でも1時間くらいは余裕をもちたい。

それによって、例えば会社に早く来過ぎたり寝る時間が足りなくなったりして、一般的に言う『無駄な時間』が大量に生まれるわけだけど、僕の場合そのくらいで丁度よいか、むしろ新しい自由を感じられるかもしれない。

無駄な時間が50%を超えたらそれはもはや無駄というより受け入れるべき定常状態だと感じるのかもしれないし、感じないのかもしれない。とりあえず常々感じている言葉にならない閉塞感的な何かに対して何らかの転換があればいいなとは思う。

僕に選挙権はもったいない

この間選挙に行ってきた。メディアではほとんど報道されないとある自治体の市議選だったけど、一応成人の務めということで、候補者数十名について1人ずつ調べ、自治体の人口動態や産業等とマニフェストを照らし合わせたり、それなりに真面目に有権者をやっていた。

投票所に着くと候補者のポスターが貼られている看板の周りに人だかりが出来ていた。何か事件か?と野次馬気取りで横を通り過ぎてみたが、単に投票しに来た中年の方々が誰に投票するか悩んでいただけだった。まあ人それぞれだけど、最終的にポスターの顔写真で誰に投票するか決める人もいれば、マンションのゴミ箱に選挙案内の封筒を捨てている人もいる。そして結局全体の投票率は40%以下ということで、民意って何だろうと思う。

そんな偉そうなことを考えていたけど、じゃあ自分はどうかと問うてみれば全然大したことはしていないし、そもそも市議会に何かを期待しているわけじゃないという点では選挙に行っていない連中とあんまり変わらない気がする。この圧倒的な他人事感はどうしようもないのだろうか。

まずここが「自分の街」という感覚が無い。全く知らないこの土地で一人暮らしを始めて1年半が経つけど、一日の大半を過ごしているのはオフィスがある東京都港区だし、仮に市が財政破綻して公共サービスはカットされ住民税は1.5倍に…なんてことになれば、多分何も躊躇せずに近隣に引っ越すと思う。

なんだか市民として登録されているとはいえ、こんな薄情なヤツに選挙権なんていらないような気がしてくる。この街で会社を経営している人や、マイホームを構えて家族を育んでいる住民の意見に対して重み付けされるべきなんじゃないかと。

昔から一人一票の原則が引っかかっていた。「投票したらデパートのクーポンがもらえる」みたいな変なキャンペーンを実施してまで無理やり投票率を上げるのは馬鹿らしいと思っていたし、そういう意味では僕が選挙に行くのは無駄足どころか、この街で本気で生きようとしている人の邪魔になっているのかもしれない。

なんだか勝手にやるせなくなってるけど、とりあえず僕が投票した新人候補は無事に初当選を果たしたようなので、twitterでもフォローしてしばらく見守ってみよう。多分、選挙なんてものはそんな感じでゆるく楽しんだもん勝ちなんだろう。

忙しさの美徳

2ヶ月半ぶりに文章を書いている。こんなにも間が空いてしまったシンプルな理由としては、「忙しかった」からなのだけれど、本当にそうなのか?そもそも忙しいって何だ?と考え込んでしまった。

「忙」という字の語源は諸説あるようだが、何か外のものに取り付かれて「心」を「亡」くしている状態であるという解説が一般的のようだ。確かに「忙しい」を発する時、本当は他にやりたいこと (心) があるがそれを実現できない嘆きを同時に表現している気がする。

そう考えると、いくら残業時間が3桁に達しようとも自分にはやりたいことを我慢している感覚が無いので、そういう意味での心は亡くしてないし、つまり忙しくないのかもしれない。これが睡眠や食事の時間が削られて無意識下の欲求にすら影響しだすとまた話は違ってくるんだろうけど。

多分、我欲に忠実な人ほど忙しい人生を送っているんだろう。普通はネガティブに捉えられがちだけれど、忙しい人は前提としてやりたいことがたくさんあって、つまりは夢や希望に満ちているとも言える。忙しいことは素晴らしい。それを超えた先には無限の可能性、明るい未来が続いているのだから何も嘆くことは無いんだ。とか言ってみたり。

ちょっと考え方を変えるだけで180度ポジティブな生き方になるのだから、僕らは本当にいい加減な存在なんだなあと思う。


ところで、以前は「今日は早めに帰宅してゲームをしよう」と自覚的に予定を作って会社に通っていたこともあったけれど、最近では特にやることもないので適当にオフィスに居残り、残業代は20時までしか出ないことになっていても結局終電までダラダラ過ごすようなことが多くなっている。この無自覚に惰性で生きている感じ、あまり良くない気がする。少しは「忙しい」と言えるぐらい何かに追われていた方が健全なのかもしれない。