ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

新生活

来週から家族以外の人間と一緒に暮らすことになる。数年前にレタス農家で2ヶ月間だけ、同世代の男とタコ部屋で生活していたのを除くと人生で初めての経験だ。新しい生活が始まってから書いても良かったんだけれど、始まる前の不安や高揚感をここに残して置きたかったので書くことにする。

実家を出て独りで東京に来てから3年半になる。仕事以外ではほとんど外出しない出不精なこともあって、未だに駅や路線の名前を聞いてもピンとこないけれど、まあそれなりに生活はできていたし、これからもそれなりな毎日がそれなりに続くだけだと思っていた。というのが去年の夏頃までの話で、前回も書いたが、全く予期してなかったイベントが突如発生し、適当に流れに身を任せていたらいつの間にか同棲なんてものを始めようとしている、というのが現在の状況。

やっぱり今でも、これは本当に自分の人生なんだろうかという違和感が凄まじい。このあいだ振られる夢をみた時も、悲しみよりも「ですよね」という納得感が先行していた印象がある。決して嫌では無いし充実感で満ちているのは確かだけど、これまで引きずってきた中途半端なニヒリズムと自己嫌悪癖(中二病とも言う)が、もう骨の髄まで染み付いているんだと思う。

付き合って5ヶ月目で同棲スタートというのは結構早い方だそうだ。相手が賃貸の更新時期を話題に出したので僕が引越しを提案してみたわけだけど、今思うと賃貸の話題は実は意図的な前振りで、僕は相手のシナリオ通りに事を進めているだけなのかもしれない(まあ全然悪い気はしないしそれも面白いなと思う)。

同棲の話題を出した頃、僕はとても焦っていた。年齢も年齢だし、前みたいに相手を勘違いさせた挙げ句、自分はともかく相手の時間を浪費させてしまうようなことは決してしたくなかった。別れるのかあるいはこの先長く付き合っていけるのか、それをお互いに早く見極めるにはどうすべきかということばかり考えていた。だから早めの同棲というのは僕としては至極当然な答だった。

世間ではまだまだ婚約前の同棲に否定的な人も少なくないようだけれど、お互いを知るためには一緒に暮らすのが手っ取り早いだろう。もし急いで同棲に踏み切ったせいで振られることになっても、彼女が時間を無駄にせずに答を出せたならそれはそれで本望だ、と言えるくらいの覚悟はある(これを覚悟と言えるかはともかく)。

といったところが新生活に臨む僕の心境だ。これで来月には「嫌われない努力」なんてことしていたら目も当てられない。

勝手に進む人生

気付けば半年も書いてなかった。特段仕事が忙しかったわけではないし、生活環境が変わったわけでもない。それでもなんとなく気分が落ち着かず、気持ちを言葉にすることができずにいた。理由ははっきりしていて、端的に言うと僕は年甲斐もなく恋愛とかいうやつに振り回されていた。

顔や性格や収入はともかく、僕には自分の過去に対する引け目もあって、これから先、異性と深い関わりをもつイメージは全く抱いてなかった。最低限の人間生活はしつつ、ずっと独りで生きていくものだと納得しきっていた。それはそれで堕落しつつも安定した精神状態であったというのに、面白いことにその均衡を壊してくる人が現れた。

顔見知りではあったもののこれまで特に意識したことが無かったし、自分から話しかけることもまず無かったんだけれど、まあせっかくこんな自分に興味をもってくれたのだし、相手が満足して飽きるまで、とりあえず全力で自分というものをさらけ出してみようかと思った。会話は下手だし、良い店は知らないし変なタバコを粋がって吸うし、酒は弱いくせに無理して飲むし、まあ所詮こんな人間ですよ、と表現することが僕なりの誠意だった。

でもどうやらそれがまずかったらしく、あとはもう転がるように僕の方からのめり込んでいってしまった。とても恥ずかしいことを書くと、相手を知ったから好きになる、という単純な順接ではなくて、相手が自分をどう理解してくれたのか、そういうフィードバックを心地良く感じられた時、より相手を好きになってしまうことを今更ながらに知った。

そんなこんなで、今の僕は何故だか普通の人生を生きている。 恋や結婚なんて普通の人間だけがやるものだと思っていたし、この半年、色々な状況を過ごしてきて、やっぱり今でもそう思っている。

一年前の自分が思い描いていた未来と現状とのギャップがあまりにも大きく、今は偶然停まったタクシーに乗って、行き先も告げず揺られている感覚だ。面白いのは、少し視線を変えれば、自分で呼ばなくても未知のタクシーはいくらでもあることに気づいたことだ。

数カ月後、僕は人生のどこを進んでいるんだろう。

禁煙

最近、図書館で煙草に関するエッセイ集を借りた。ひたすら煙草を称賛する言葉で始まったかと思うと、逆に喫煙者に対する非理解を主張するものもあったりして読み物としてなかなか楽しめた。その中で禁煙に対する考察がいくつかあり、著者が誰だったかは忘れたけれど、「自分を内省的に観察するきっかけ」という文章が印象深かったので自分も一度体験してみようと思ったわけだ。

煙草を我慢する時、自分は何を思うんだろうか。喉の乾き、あるいは空腹、それとももっと違った新しい欲望を感じるんだろうか。自分の中に大きな執着を発見できるんじゃないかと期待していた。

だけど結果は案外につまらないもので、特に強い渇望感を感じるまでもなく、予定していた5日間の禁煙期間が過ぎてしまった。

はじめのうちは喪失感のようなものを感じたりもしたし、煙草が解禁される直前はそれなりにそわそわしていた。その時々で落ち着いて自分に問い直す。「何を求めているのか」

医学的な依存性という意味で、やっぱりニコチンという物質そのものを求めているのかもしれないし、もしかしたら不良少年のように何かに火を点けたい衝動があるのかもしれない。

そこでふと煙草の箱とライターを手に持ってみると不思議と落ち着いている自分に気付く。火の点いていない煙草を右手に持ちながら頬杖をつくのも良い感覚だ。これだけ喫煙行為の7割ぐらいは達成しているのかもしれない。そんな骨董無形なことを考えたりもする、この無駄な時間を僕は求めているようだ。

ただ物質としての煙草を欲しているのではなく――生理学的な依存はありそうだけど、おそらく自分は煙草によって作られる、こういった空白の時間に惹かれているのだとわかった。

ところで禁煙後の1本は美味いという話をよく聞く。前に読んだ本などではそのために定期的に煙草を断っているという人もいたが、さて自分はどうだったか。

たった5日間という短い断煙期間だったからか、感動するほどの体験は無かった。むしろ自分はこんなものを習慣化していたのかという違和感の方が強く、復煙して数日経ってもそれは消えずに残っている。

でもだからといってこのまま煙草を卒業できるわけではないようだ。そこに「不快だから拒否」という単純な論理は通らず、「こんなもの」と思いながら、いや思っているからこそダラダラと不毛な付き合い――まるで人間関係のようだ――を続けてしまうのだろう。

参考: 『もうすぐ絶滅するという煙草について』