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ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

忙しさの美徳

2ヶ月半ぶりに文章を書いている。こんなにも間が空いてしまったシンプルな理由としては、「忙しかった」からなのだけれど、本当にそうなのか?そもそも忙しいって何だ?と考え込んでしまった。

「忙」という字の語源は諸説あるようだが、何か外のものに取り付かれて「心」を「亡」くしている状態であるという解説が一般的のようだ。確かに「忙しい」を発する時、本当は他にやりたいこと (心) があるがそれを実現できない嘆きを同時に表現している気がする。

そう考えると、いくら残業時間が3桁に達しようとも自分にはやりたいことを我慢している感覚が無いので、そういう意味での心は亡くしてないし、つまり忙しくないのかもしれない。これが睡眠や食事の時間が削られて無意識下の欲求にすら影響しだすとまた話は違ってくるんだろうけど。

多分、我欲に忠実な人ほど忙しい人生を送っているんだろう。普通はネガティブに捉えられがちだけれど、忙しい人は前提としてやりたいことがたくさんあって、つまりは夢や希望に満ちているとも言える。忙しいことは素晴らしい。それを超えた先には無限の可能性、明るい未来が続いているのだから何も嘆くことは無いんだ。とか言ってみたり。

ちょっと考え方を変えるだけで180度ポジティブな生き方になるのだから、僕らは本当にいい加減な存在なんだなあと思う。


ところで、以前は「今日は早めに帰宅してゲームをしよう」と自覚的に予定を作って会社に通っていたこともあったけれど、最近では特にやることもないので適当にオフィスに居残り、残業代は20時までしか出ないことになっていても結局終電までダラダラ過ごすようなことが多くなっている。この無自覚に惰性で生きている感じ、あまり良くない気がする。少しは「忙しい」と言えるぐらい何かに追われていた方が健全なのかもしれない。

日本語を話せるというアイデンティティ

「国籍とアイデンティティ」が流行っているらしい。

僕がこれまで日本人としてのアイデンティティなんて感じたことが無かったのは、単純に外に出たことが無かったからだと言われればそうかもしれない。自分の世界は住んでいる市町村までで、ましてや「世界の中の日本人」なんて感覚は全然理解できないでいる。なので国籍に対して執着というか、それが自分を構成する重要な要素とはあまり考えられない。

この国に生まれたから今の自分がある、というより、自分が生まれたその場所が日本であったというだけだ。そりゃ祖国が無くなるのは寂しいけれど、それは行きつけの本屋や好きな公園が無くなるのと同じことのようでもあるし、一方で国となるとスケールが大きすぎて上手く想像できない。だから国が好きかどうかなんて正直わからないし、国籍をアイデンティティとするなんて余計意味不明に感じる。

日本人は国家的アイデンティティが希薄と言われるけど、多分それはそれで幸運なことなんだろう。民族と文化と言語が一つの場所に収まっている、現在のこの国の存在自体が消えてしまう心配をする人は少ないが、それが脅かされるようなことがあれば、日本人だって国に対してアイデンティティを感じたりするのかもしれない。アイデンティティは自分と他者との違いを決定づける壁のようなものだ。

そういう意味では、「言語」という壁が、自分、というか人間をその人たらしめる最も重要な要素だと思っている。単純な文法や単語の意味としての言語ではなく、語順や話法による発想の違い、形容のバリエーションが生み出す複雑な情緒?など、まあ難しい言語学の話はよくわからないが、素人ながら、これこそ言語によって作られる思想の「壁」でありアイデンティティだと考える。

何かに対して何故こう考えるのか、そういう根拠として過去の経験や本で学んだことなどが挙げられやすいが、それを解釈して自分のものにしていく部分は言語次第で全く変わるんじゃないだろうか。日本人だからそれを「そう」考えるのではなく、日本語として「こう」考えた、と言う方が僕にはしっくりくる。だから君のアイデンティティは?みたいな面倒くさい話になったら、これまで通り「地球人であること」とテキトーに答えるのではなく、「日本語を話せることがアイデンティティ」と返すことにしよう。

池田晶子氏は「言葉になっていない思考が真理である」と言っていたけれど、言葉なくして何かを伝えることはできないし、「伝える」ということを考えることも出来ないはずだ。お互いに何かを伝え合い、そのネットワークが広がって国家が作られていくとすると、やっぱり伝えられる思想、伝え方を構成する言語こそが国を決定づけるという考え方は少し偏り過ぎだろうか。

そしてこの「考え」もまた1つの固有な言語によって作られたものに過ぎないので、なんかこう堂々巡りのような感じもする。

どこまで当事者になればいい

「当事者意識を持て」とは、新社会人向けの研修かそういう類のセミナーではお決まりの文句だそうだ。つまり会社の事業や自分の仕事に対して、他人事と思うのではなく、全て自分に関係していると思い込んで取り組め、ということだろう。

じゃあ、どこからは他人事にしてもよいのか、その境界線はあるのか、という疑問が生まれる。

当事者意識を要求するその人は、果たしてどこまで当事者意識を持てているんだろうか。例えば上司が部下にそれを求めるのであれば、少なくとも上司は部下の人生に関わっているという意識を持たなきゃ話にならない。そして会社の事業に対する当事者意識も必要で、自分が暮らす社会に対する意識も無いといけない。なら世界はどうか。発展途上国のストリートチルドレンの人生にまで当事者意識を持つべきなんだろうか。

想像だけど、会社の研修で求められるのは、あくまで会社と会社に関連する物事に対する当事者意識だ。会社の正義としては当たり前の方針だと思うし、別にそれに反逆したいわけではないけど、やっぱりどこか滑稽に思える。意識の範囲を人から指定されるというのも妙だし、座学で教え込んで理解できる程度の意識なんて、何の意味も無さそうだからだ。

どうでもよくないこと

当事者意識が強い、と人から評価されたこともあったけど、強い弱いというか、自分にはそんな意識が一切無いような気もする。ヤケになっているだけかもしれないが、いつだって何もかもがどうだっていい、という諦めが常にあるので、言わば自分の思考以外全てが他人事なんだ。「どこまで当事者意識を持てばいい?」なんてことを疑問に思う時点で、そんな意識は全く無いということなんだろう。

そう考えていると、自分にとって「どうでもよくないこと」を見つけることが、当事者意識を持つということなんだと思った。どうやらこれは相当大変そうなので、当事者意識について考えるのはしばらく辞めておくことにする。