ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

醜い感情

ちょうどひと月前に引っ越しをした。

無駄に広い家の家賃を払い続けるのがもったいなかったというのが表面的な理由だけど、より本質的には、そこでの生活のきっかけとなった「過去」に対し、物理的にも精神的にも決別したかったからだ。

「過去」については何度も書いているし、おそらく10年後にこれを読み返しても、「はて、何のことだったか」とはならないだろうから省略。今後も書くことはあるまい(そう信じたい)。

昔、「自分を変えたいならまず住む場所を変えろ」と何かの本で読んだ気がする。その言葉に励まされつつ今回引っ越しをしたものの、たかだか20km移動しただけ。仕事もプライベートの付き合いも全く変わらない状態で、はたして「決別」なんてできるんだろうか。

そもそもなにをもって決別したと言えるのか、自分でも深くは考えてなかった。よく言われるように、過去を振り返らず未来を志向している状態を目指すべきなんだろうけど、そこへの道筋が全く見えない。誰もが思いつくような「新しい恋愛」という実践は結局うまくいかなかったし、仕事や副業で無理やり自分を追い込んでみても、どこか本気になれない自分がいる。

最近 twitter で知り合った人と会う機会があった(というか勢いで無理やり誘った...)。久々に自分の「過去」について話してみたところ、ある部分では既に清算できているらしいことがわかった。心身ともにボロボロだった当時は、どうにか悲劇のネタとして昇華させようと躍起になっていたけれど、それも段々とこなれてきて、今では好きな映画のあらすじを話すような感覚で言葉にすることができている。悲しみは克服できたと言えそうだ。

その上で今も引きずっている感情はなんだろうと考えたとき、まず思い浮かぶのは憎悪だ。正直に告白すると、例えば僕の敵が、何も知らない他の社員と楽しげに会話しているのを見ていると、その場で全部洗いざらいぶち撒けて、「そいつは下劣な人間なんだ」と言ってやろうかというドス黒い感情が湧いたりする。そんなことをしても自分に何のメリットも無いことは理性的にわかるから黙って見過ごしているだけであって、憎悪の感情はたしかに自分の中に存在している。そしてそれは存在すべきでないと思っている。

一つ答えが出たらしい。自分にとって「過去と決別する」とは、つまり憎悪という醜い感情を自分の中から消し去ることを指しているようだ。複雑な感情を雑にまとめているだけという可能性は否めないけど、これは対象から距離を取れば解決するような、案外と簡単な話なのかもしれない。

変えるべき場所を見誤った感がある。

関心と自己肯定感

例えば流行りの音楽に興味をもてず、結局学生の頃から聴いている曲をリピートしていたり、知らない飲食店に入っても特別美味いと感じることもなければ、より美味しいものを食べたいというモチベーションも沸かない。明らかに新しいものに対する感性が鈍くなってる。

まあ思い返せば、子供頃から無邪気にはしゃげるタイプではなかった。本当に心の底からワクワクしたことが無いのならそれはそれでなかなか悲しい人生だが、おそらくはそういう気持ちを自分自身で認知することが苦手なんだと思う。

好きなことをするには、お金や時間などのリソースの問題もあるが、まずは自分が何に関心があるのか知っていることが大前提だ。「自分が好きなことは自分しかわからない」のだから「自分が好きなことを自分は知っている」のは当たり前だと思いがちだが、これは大きな罠だろう。これまでまんまと騙された。

もちろん今でも好きなアーティストや作家、仕事に対するこだわりなど、関心の対象は無数にある。なのにそれを全力で肯定できない。「好きならやればいいじゃん」と言われて「別に...」という言葉が口から出かけるほどに、自分の気持ちに自信が無い。まったくもってダサい男だなと思う。

特に具体的なエピソードは思い浮かばないが、もしかすると自分の趣味を否定されたトラウマを無意識に抱えているのだろうか。匿名のSNSですら抽象的な言葉しか吐き出せないのもそれが理由かもしれない。

ということを考えていて思いついたのが、これが本当の意味で「自己肯定感が無い」というやつなのではないかということ。

自分のスキルや仕事の成果に自信が無いわけではないけど、そんな客観的に評価しやすいものを名刺にしているだけでは一向に強い自己肯定感は得られないのではないか。第一、人間としてつまらない。というかそれはただの「スペック」であって、そんなの人間である必要が無い。

自分の関心に真っ直ぐな人が羨ましい。たとえ履歴書に書けるようなスキルや経験が無くとも、そういう人こそ強い人間だと思う。

チープな出会いと別れ

去年の12月に某マッチングアプリで知り合った人と、昨日お別れした。

タイミング的には「コロナ別れ」だけど実際そうかもしれない。会う頻度が減ったのは確実にコロナの影響だけど、それでもなんとも思わなくなっていた僕の甲斐性の無さが原因なので、まあ結局のところ僕が悪い。相手に必要とされないと感じたらそりゃ寂しいし、一緒にいる意味がないのはよくわかる。よくある理由で振られるくらいには、僕もよくいる男になったということだろうか。

それにしても、今回の件で自分のことがますます信用ならなくなった。付き合った当時はすごく好きだったはずなのに、正直今はそのときの感情を思い出せない。今まであまり熱したことが無いというだけで、自分が思っているよりも「熱しやすく冷めやすい」人間のようだ。

思い返せば不満というか、もう少し手ごたえが欲しいなと思うことはあった。真面目で素直なとても良い人だったけど、意見が常識的過ぎるところがあって、時間が経つほどに「この人ならなんて返すだろう?」という会話のワクワク感を失っていった気がする(そういう傲慢な態度で相手を見ているわけだから、僕はもうこれ以上他人と深く関わらない方が良いかもしれない)。

言い訳がましいけど、出会いのきっかけがマッチングアプリであることも要因としてはあると思う。わりと簡単に何人もの人と会うことができるので、良くも悪くも「比較」ができてしまう。見るからに美人でモテそうな女性が嫌でも目に付くが当然そんな人とまともにマッチするはずもなく、「この人ならいけるかな...」という妥協感が加速していく。口では「キミしかいない」とか言ってみても、それは比較検討した結果の最良(最高ではない!)の選択でしかないはず。

それでもうまくカップルはうまくいくし、アプリはただのきっかけに過ぎないのかもしれない。実際4人に1人がそういう出会いから結婚するとも聞くし、それで幸せになる人を生み出しているなら素晴らしい仕組みだと思う。ただ、アプリで結婚したカップルの離婚率は気になるところだ。出会いがチープになると別れも簡単になるように思えてならない(バツイチの女性と会ったことがあるが、そういうパターンだった)。

こんなことを書いているのは、この新しい出会いと別れの形を一般化して、自分がただのクズ男だということをカモフラージュしたいだけなのかもしれないな。

何も無い休日

外出制限でバンド活動はできなくなってしまったけど、元々引きこもりがちだしやることも無いしで、以前と特に変わらない休日を過ごしている。

引っ越しをしようと思い物件検索サイトを自分で作ったりしていたが、自分が使うだけなら十分なものがすぐできてしまい、久々の開発欲求は一瞬で冷めてしまった。

今は興味のある技術分野も特別無いし、まず目的も無くただ勉強するということが苦手である以上、先に目的を見つけるべきなんだけどそれも簡単には見つからず、結果「何も無い休日」となってしまっている。

ところで、最近「キュウソネコカミ」というバンドをよく聴いている。

これまではノリ重視のコミックバンドなのかと思ってなんとなく避けていたけど、よく聴くと歌詞の内容がよくまとまっていてどの曲も説得力があり、明るい曲調でも微妙に切なさを感じるフレーズがあったりして、今更だけどすっかりハマってしまった。

ちなみによく比較されるバンドとして「ヤバT」がいるけど、あれ良さはよくわからなかった。歌詞がどこまで本気なのか、何に共感して欲しいのかが全然伝わってこない。多分、歌詞に意味を求めてはいけないバンドなんだろう。

一方でキュウソネコカミの曲はわかりやすい。わかりやすいけど誰もがわかる内容というわけでもなく、刺さる人には刺さるという感じ。非モテの男子高校生が峯田和伸に傾倒するのと似ているかもしれない。冴えない大学生や社会人が抱える漠然とした不安や苛立ちみたいなネガティブな感情を、わかりやすい言葉で叫んでくれるところにグッと来るんだろう。

棘のある詞も、全否定ではなくどこか可愛げがあったりして、憎めない感じがする。なかなかズルいバンドだなと思う。

それでも僕ら息をして毎日なんとか生きてる
独りで夜道をランニング今日も
時計の針ばかり見て夕方になると憂欝
何かしないとな
愛する人も居なくて周り見ちゃうと憂欝
何かしないと何かしないとな
何もない休日
わぁーってなって不安定わぁーってなって不安定
わぁーってなって不安定今日も

「わぁーってなる」としか言いようのないこの感情なんて、まさに今日も何の生産性も無く、連休をダラダラと過ごし、今更焦っている僕そのものだったりするから本当好き。

本当のクズにはなれない

風の噂で元カノに新しい彼氏ができたという話を聞き、僕はなんでもないような顔を装うのが精一杯で、内心かなりダメージを受けていた。あんな別れ方をしておいてもう新しい男か。女の恋は上書き保存とはよく聞くけど、なるほどこういうことかと納得した。

まあ僕も事象だけ並べれば、去年の年末はマッチングアプリに課金したり、週に何人もの女性とお酒を飲みに行ったりしていたわけで、全く人のことを言える立場では無い。そして今や、半年前の僕であれば軽蔑するような、ただのクズ男になってしまった。人間生きていればまあこういう時期もある、と言い聞かせてなんとか自分を保っている。

ここまで堕落してから思うのは、自分にはクズとか悪とかが全く似合わないということだ。遅れてきた反抗期なのか、そういったものに対する憧れがあっただけで、実際にその役を演じてみたところ、それを背負えるほどの器が無いことがよくわかった。嘘は苦手で、完全に自己中心的にはなれず、罪の意識を忘れることができない。

僕の周りの人や自分自身の経験でわかってきたのだが、どうやら浮気ができる人間とできない人間がいるらしい。その違いはいくつかパターンがあって、パートナーに悪いと思うから浮気しない人もいれば、悪いと確信しているが性欲とリスクを合理的に計算して行動する人もいる(これは僕の上司)。あと何も考えず本能的にヤッてしまう人もいるだろう。

さて僕はどうなんだろう。これまでは「できない側」だと思っていた。でも瞬間的には「できる側」になってしまうことが今回証明されたし、一度そちら側に足を踏み入れてしまうと、染まるとまではいかないが、善悪の基準が多少なり自分の行動に有利な方向へ修正されてしまうことにも気付いた。僕が弱い人間であるということだけでなく、世間にはこういう弱い人間がいるという事実が強化されたという点で、今回の気付きは意義深い。

自分に関して言えば、ある意味希望でもあると思う。落ちて落ちきったから、自分の底がどの程度なのかよくわかった。もし再び同じようなクズになったとしても、せいぜいこのレベルなんだと思うと少し安心できる。酔っ払っても喧嘩はしない、みたいな自信のようなものだ。

落ちたあとは、また真人間に戻るのみだ。罰の無い罪は扱いが難しい。なるべく時間をかけずに清算することがせめてもの償いになるだろうか。