ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

『貧困』への興味は中学時代から?

以前から貧困問題やホームレスに興味があって、高架下でキャンプしてみたり炊き出しに行ったりしていた。臓器売買ビジネスや物乞い、レンタルチャイルドを扱ったルポ本なども結構読んできたけれど、別に世界を変えたいとかそういう大義がしっかりとあるわけじゃなく、不謹慎だけど本当に興味本位としか言いようが無い。

そういう傾向はいつからあるのかあらためて考えてみて、久々に思い出したのが中学生時代の卒業文集。学校生活の思い出とか将来の夢とかを書くあれに、僕は「南北問題に取り組みたい」と書いた。「環境問題等の国際的な課題に立ち向かうには、まずは全世界の人が経済的に同じ土俵にたたないと話が進まない」と恥ずかしげもなく豪語している。

当時は僕がそれをふざけて書いていたのだと、先生にも親にも指摘された。というか実際ふざけていたと思う。当時から既に今と同様に具体的な夢なんて全く無くて書きようがなかったし、部活動の思い出話なんかを記録に残す方が恥ずかしいと考えていた。不真面目で抜けてるヤツが変に背伸びして世界を変えたいと嘯き、それを一人で面白がっている痛いヤツ。僕に対する他人からの評価は概ねこんな感じだっただろう。

ただ目立ちたかっただけかもしれない。でもそれなら題材はいくらでもあったはずで、やっぱり僕は昔から貧困というキーワードに引っかかっていたような気がする。本当は誰よりもシンプルで真面目で、だけどそれを表現できる場所が無くて普通の不真面目を演じていたということだろうか (これは流石にいいように脚色しすぎだが)。

とにかく貧困に対する漠然とした関心は中学時代から今までずっと続いているらしく、多分これからも変わらないだろう。自分にもちょっとした軸があったようで少し救われた。

真面目さを素直に人に見せることは難しい。その葛藤は高校大学とずっとあって僕は未だにそれを上手く扱えていないけれど、無意識的にそれを隠してきたせいか、いつの間にか本当の真面目さを自分すら忘れていた。自分は真面目だと口で言うのは簡単だけれど、心の底から自分を肯定できるようになれればいいなと思う。

死ぬまでにやりたいことなんて無いけどそもそも死って何

よく自己啓発的なヤツで、「死ぬまでにやりたいことリストを作れ」みたいな説法があるけれど、僕は全然ピンとこない。そしてこれが本当に夢が全く無いからなのか、それとも自分の不可能性を認めたくないが為に無意識的に虚勢を張っているのかよくわからない。

そもそも死ぬことをイメージできていないという可能性もある。色々考えたけど今の僕の場合これが濃厚っぽい。自分が未来永劫に生き続けるなんて常識的にありえないことだとは理解できるけど、精神的にそれを認められない部分が確かにある (死ぬまでが「永遠」と仮定するなら「永遠に生きる」は真になってしまうという詭弁も面白いけどややこしくなるのでおいておこう)。

死を認識できているという思い込み

「氏ね」とか「死ねばいいのに」とか半ばスラングとして日常に溢れているけれど、僕は「死ぬ」という概念が不思議で仕方ない。生物種の新陳代謝として、個体が生まれては死に続けるという仕様が作られたのだと理屈では納得できる。ただ、人間は自分の死を認識できてしまっていることが妙に引っかかる。いや認識した気になっている、の方が適切だろうか。

みんな死を認識した気になっている、もしくは既に死を受け入れている (!) から「死ぬまでにやりたいこと」とか考えられるのだろうか。一方で僕はまず死がよくわからないし、自分が死ぬなんて思ってもいないから命の時間をどう使うという発想に至らない。

一般論はどうか知らないが、せっかく人間として生まれたのに死がわからないのは非常に残念なことのように思う。誰か教えて欲しい。哲学やら宗教をもっとちゃんと勉強するべきだろうか。

ただの屁理屈

下記のような屁理屈の迷路にハマっている感じもする。

死ぬとは、世界から切り離されること。ここまでは良いが次が問題で、世界とは自分が感覚している情景のみだという思い込みがある。これがあるので、自分が死ぬ瞬間に世界も消え失せるから切り離されるわけじゃない、という理屈になってしまっている。だから自分は死なない、というわけだ。

いつからこんな偏屈になってしまったのだろうと思い返してみると、そういや高校生の頃もこんなことをずっと考えていて、人が死ぬ直前と直後で質量が変化したというオカルトチックな実験の結果に惹かれたりした。生きている意味や価値が物理量で表現できたことに一時的に救われたのだと思う (なお科学的に根拠があるかは不明)。

悩める思春期の高校生としては健全だろうけど、10年近く経って未だに成長していないのはやっぱり何らかの病気なのかね。

自由過ぎる不自由さ

あなたは自由ですか?と聞かれれば大抵の人は不自由だと答えるそうだ。

一般的な自由のイメージは、好きな時に旅行できるとか好きなものを好きなだけ食べられるとか、そういう何でもできる状態としか考えられてないし、確かにそれだけなら不自由な人は多そうだ。

(自由 ⊆ 不自由) かつ (自由 ⊇ 不自由)

一方僕はというと、別に時間やお金の余裕があるわけじゃないけれど、極めて自由だと感じてしまう。

幸い五体満足で生まれてきて(味覚は弱い気がするが)、機能的に困ることはない。教育を受けることができた結果、字も読めるし勉強することに大したハードルも無い。

やりたいことがやれるかという観点でも、別に法を侵したり誰かを傷つけてまでどうしてもやりたいことなんてそもそも想像がつかないし、どうしようもないくらいの楽観主義がそうさせるのか、漠然と何でも出来る気もしている。

こうやってまとめてみるも自由としか言い様の無い状況だけれど、「自由」に付随するポジティブ感は何故だか感じることはできていない。そうして、これはつまり不自由なのか?という葛藤が常にある。「何をしてもよい」という自由は、同時に「拠り所となる制約すら無い」という不自由を生み出しているからだろうか。

無意識レベルの制御こそ自由

最近、ロボット工学博士である森政弘先生の本を読んだのだけれど、彼によると、自由とはフィギアスケートの選手のように、氷上のような不安定な環境において無意識レベルで繊細な「制御」ができている状態である、と言っていてこれが無性にしっくりきた。

不自由な状況を感じさせないような、のびのびとした振る舞い、それこそ僕が求める自由なのかもしれない。

仏教の色即是空、空即是色という、相反する二つが合わさって一つを成すという考え方と同じで、自由もまた不自由という真逆の性質があって初めて自由、または不自由を生じさせるのだろう。

そういう意味では、自由過ぎる不自由さを何となく知覚できてるので割りと惜しいところまで来ている気もするが、如何せん誰かの助言等で成果を確認する術が無いので、しばらくは同じところでぐるぐると廻ることになりそうだ。

自由の中の不自由、不自由の中の自由。こういうことをダラダラと悩むのは楽しい。

人生の十字路でその都度迷ってしまう

地元大阪から東京に出てきて1年が経った。大阪にいる頃は自宅と図書館を往復するだけの生活を送っていた自分が、今やこの大都会のど真ん中でサラリーマンをしているという事実に対して、少し前までは滑稽で面白いと感じていたのだけれど、どうやら最近ではこの生活に慣れてしまったようで、残念ながら当時を思い出すこと自体も少なくなっている。

ところで、これまで20数年生きてきて、年を経る毎に十字路 (選択のタイミング) が増え続けてきたように思う。選択の重さについてはよくわからないが、とにかく選択を迫られることが多くなっている 。僕は「何かを選ぶこと」が非常に苦手なタイプなのでこの状況が結構辛かったりする。

なぜ十字路が多いかは簡単な話で、常に「行き当りばったり」だからなのと、先を見通せなくなっているからだろう。この先どうなるか普通に考えられる人であれば迷わず直進するような道なのに、僕の場合いちいち躊躇してしまう。「選択」が苦手というか、これを選んだらこうなるという想像力と論理がかなり弱いんだと思う。深く考えることが難しい。

東京に来た主な理由である「仕事を見つける」ことは当にクリアしてまっているのにも関わらず、次に何をやるかが全く決まっていない。こうなるのは当たり前だけれど、1年前の僕は「仕事さえ決まれば何か起きるはず」というお花畑状態だった。大学受験の頃と何も変わっていない。

誰だって流されて生きているんだろうと勝手に思い込んでいたけど、周囲を見ていると全然そんな気がしない。みんな何故そんなにも意志が溢れているんだろうか。不思議でならない。

席を譲る煩わしさ

僕は1時間近くかけて電車で通勤している。基本的に朝も夜も満員電車の中でつり革にぶら下がりながら揺られているんだけど、まれに自分の正面に座っている人が降車して座席が空くと、その瞬間に色々と考えてしまって非常に面倒くさく感じる。

まず座るか座らないかという二択があって、当然疲れていると座るんだろうけど、別に立ったままだと意識を失うほど疲れているわけじゃない。座ったところで、明日の自分の健康状態に与える良い影響なんて微々たるものだ。オフィスでキーボード叩くだけの仕事しかしてないし僕よりも疲れている人は車内にいくらでもいるはずなので、自分が座るのはなんとなく理に適ってない気がしてしまう。

そこで空いた席を譲ろうと周りを見渡すんだけど、今度は誰に譲るかという選択肢が増えすぎて面倒くさい。とりあえず右の人に譲ったとして、ふと左の人と目が合ったりすると気まずいし、明らかに譲った人の方が若かったりすると尚更罪悪感を感じてしまう。

酔っ払って転びそうになっているおじさんを見かけたら、近くの席に座っている若者に対して「譲ってあげればいいのに」と一瞬思いつつも、もしかしたらその若者は今日12時間の肉体労働を終えてクタクタになりながら帰宅しているのかもしれないし、それを僕が裁定できるはずも無いわけで、結局各々が譲るか譲らないのか判断するしかないのだと考え直したりする。

座席が空く度にこんなことを考えてしまうので本当に面倒くさい。

以前は譲る機会が起こらないようにドア付近に陣取るという方針だったけど、あまりに混みすぎて本も読めないので仕方なく座席シート前にいることが多い。

いっそのこと座席の無い車両を作ってくれないかと常々期待している。