ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

禁煙

最近、図書館で煙草に関するエッセイ集を借りた。ひたすら煙草を称賛する言葉で始まったかと思うと、逆に喫煙者に対する非理解を主張するものもあったりして読み物としてなかなか楽しめた。その中で禁煙に対する考察がいくつかあり、著者が誰だったかは忘れたけれど、「自分を内省的に観察するきっかけ」という文章が印象深かったので自分も一度体験してみようと思ったわけだ。

煙草を我慢する時、自分は何を思うんだろうか。喉の乾き、あるいは空腹、それとももっと違った新しい欲望を感じるんだろうか。自分の中に大きな執着を発見できるんじゃないかと期待していた。

だけど結果は案外につまらないもので、特に強い渇望感を感じるまでもなく、予定していた5日間の禁煙期間が過ぎてしまった。

はじめのうちは喪失感のようなものを感じたりもしたし、煙草が解禁される直前はそれなりにそわそわしていた。その時々で落ち着いて自分に問い直す。「何を求めているのか」

医学的な依存性という意味で、やっぱりニコチンという物質そのものを求めているのかもしれないし、もしかしたら不良少年のように何かに火を点けたい衝動があるのかもしれない。

そこでふと煙草の箱とライターを手に持ってみると不思議と落ち着いている自分に気付く。火の点いていない煙草を右手に持ちながら頬杖をつくのも良い感覚だ。これだけ喫煙行為の7割ぐらいは達成しているのかもしれない。そんな骨董無形なことを考えたりもする、この無駄な時間を僕は求めているようだ。

ただ物質としての煙草を欲しているのではなく――生理学的な依存はありそうだけど、おそらく自分は煙草によって作られる、こういった空白の時間に惹かれているのだとわかった。

ところで禁煙後の1本は美味いという話をよく聞く。前に読んだ本などではそのために定期的に煙草を断っているという人もいたが、さて自分はどうだったか。

たった5日間という短い断煙期間だったからか、感動するほどの体験は無かった。むしろ自分はこんなものを習慣化していたのかという違和感の方が強く、復煙して数日経ってもそれは消えずに残っている。

でもだからといってこのまま煙草を卒業できるわけではないようだ。そこに「不快だから拒否」という単純な論理は通らず、「こんなもの」と思いながら、いや思っているからこそダラダラと不毛な付き合い――まるで人間関係のようだ――を続けてしまうのだろう。

参考: 『もうすぐ絶滅するという煙草について』