ニートワークエンジニア

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日本語を話せるというアイデンティティ

「国籍とアイデンティティ」が流行っているらしい。

僕がこれまで日本人としてのアイデンティティなんて感じたことが無かったのは、単純に外に出たことが無かったからだと言われればそうかもしれない。自分の世界は住んでいる市町村までで、ましてや「世界の中の日本人」なんて感覚は全然理解できないでいる。なので国籍に対して執着というか、それが自分を構成する重要な要素とはあまり考えられない。

この国に生まれたから今の自分がある、というより、自分が生まれたその場所が日本であったというだけだ。そりゃ祖国が無くなるのは寂しいけれど、それは行きつけの本屋や好きな公園が無くなるのと同じことのようでもあるし、一方で国となるとスケールが大きすぎて上手く想像できない。だから国が好きかどうかなんて正直わからないし、国籍をアイデンティティとするなんて余計意味不明に感じる。

日本人は国家的アイデンティティが希薄と言われるけど、多分それはそれで幸運なことなんだろう。民族と文化と言語が一つの場所に収まっている、現在のこの国の存在自体が消えてしまう心配をする人は少ないが、それが脅かされるようなことがあれば、日本人だって国に対してアイデンティティを感じたりするのかもしれない。アイデンティティは自分と他者との違いを決定づける壁のようなものだ。

そういう意味では、「言語」という壁が、自分、というか人間をその人たらしめる最も重要な要素だと思っている。単純な文法や単語の意味としての言語ではなく、語順や話法による発想の違い、形容のバリエーションが生み出す複雑な情緒?など、まあ難しい言語学の話はよくわからないが、素人ながら、これこそ言語によって作られる思想の「壁」でありアイデンティティだと考える。

何かに対して何故こう考えるのか、そういう根拠として過去の経験や本で学んだことなどが挙げられやすいが、それを解釈して自分のものにしていく部分は言語次第で全く変わるんじゃないだろうか。日本人だからそれを「そう」考えるのではなく、日本語として「こう」考えた、と言う方が僕にはしっくりくる。だから君のアイデンティティは?みたいな面倒くさい話になったら、これまで通り「地球人であること」とテキトーに答えるのではなく、「日本語を話せることがアイデンティティ」と返すことにしよう。

池田晶子氏は「言葉になっていない思考が真理である」と言っていたけれど、言葉なくして何かを伝えることはできないし、「伝える」ということを考えることも出来ないはずだ。お互いに何かを伝え合い、そのネットワークが広がって国家が作られていくとすると、やっぱり伝えられる思想、伝え方を構成する言語こそが国を決定づけるという考え方は少し偏り過ぎだろうか。

そしてこの「考え」もまた1つの固有な言語によって作られたものに過ぎないので、なんかこう堂々巡りのような感じもする。