ケチという病
安定した収入が無いからなのかわからないが、僕は消費そのものを拒んでしまう、いわゆる心が貧しい人になりつつある。
中学生の頃は小遣いから交遊費や部活動にかかる諸経費を算出していた。額はどちらかと言えば少ない方だったので欲しくても買えないものはいくらでもあった。しかし本当に必要なものはちゃんと見極めてお金を遣うことができていたような気がする。
毎月もらえる額は決まっていたからこそ、遣える額から逆算して何にどれだけ費やすべきか考えられていたのだろう。つまり中学生の僕は運用ができていた。
一方今はというと、毎月確実にもらえるお金など無く、不安定なアフィリエイトとクラウドソーシングという名のネット内職による報酬だけが収入である。
今月多少稼げたとしても、来月はゼロどころか経費などによってマイナスになる可能性さえある。こんな状況では軽々しくお金を遣うことも出来ず、財布の紐が固くなるというより財布を金庫に封印する勢いだ。
自分に投資できない
消費はつまり自分への投資だとはわかっていてもそれが出来ない。というか自分に希望を見いだせないのだから当たり前だ。将来性の無い企業に誰も投資したがらないのと同じである。僕が自分の為に消費しないのは正しい投資意識なのかもしれない。
ただしこれは時間の存在を考慮していない。
時間が永遠にあるような錯覚
『タダより高いものはない』という格言があるが、これは無料というだけで安易に飛びつき振り回された結果『失う時間』の尊さを表していると、僕は思っている。
今しか学べないこと、今しか経験できないことはいくらでもあるはずなのに、ニートをやっているとそういった類の焦りを感じにくくなる。毎日刺激の無い同じような日々を過ごすことで時間の感覚が鈍くなるのだろうか。
そしてそのうち、老化による自分自身の変化を感じる段階になって始めて時間に限りがあることに気づくが、もはや手遅れである。
ニートの人はそれぞれ問題を抱えているのかもしれないが、まずは何かしらの外部からの刺激や変化を与える必要があると思う。尻を叩くことだとも言えなくもないが、要は自分が限られた時間軸の中で生きているということを彼自身に認知してもらうのだ。
そうしないといつまで経っても自分に投資する価値なんて理解できないままだろう。