よく自己啓発的なヤツで、「死ぬまでにやりたいことリストを作れ」みたいな説法があるけれど、僕は全然ピンとこない。そしてこれが本当に夢が全く無いからなのか、それとも自分の不可能性を認めたくないが為に無意識的に虚勢を張っているのかよくわからない。
死ぬまでにやりたいことを真面目に考えたいけれど、まず自分の死を仮定できない。実はこれって物凄く難しいことのような気がする。
— ラマ (@pacstrap) 2016年6月5日
そもそも死ぬことをイメージできていないという可能性もある。色々考えたけど今の僕の場合これが濃厚っぽい。自分が未来永劫に生き続けるなんて常識的にありえないことだとは理解できるけど、精神的にそれを認められない部分が確かにある (死ぬまでが「永遠」と仮定するなら「永遠に生きる」は真になってしまうという詭弁も面白いけどややこしくなるのでおいておこう)。
死を認識できているという思い込み
「氏ね」とか「死ねばいいのに」とか半ばスラングとして日常に溢れているけれど、僕は「死ぬ」という概念が不思議で仕方ない。生物種の新陳代謝として、個体が生まれては死に続けるという仕様が作られたのだと理屈では納得できる。ただ、人間は自分の死を認識できてしまっていることが妙に引っかかる。いや認識した気になっている、の方が適切だろうか。
みんな死を認識した気になっている、もしくは既に死を受け入れている (!) から「死ぬまでにやりたいこと」とか考えられるのだろうか。一方で僕はまず死がよくわからないし、自分が死ぬなんて思ってもいないから命の時間をどう使うという発想に至らない。
一般論はどうか知らないが、せっかく人間として生まれたのに死がわからないのは非常に残念なことのように思う。誰か教えて欲しい。哲学やら宗教をもっとちゃんと勉強するべきだろうか。
ただの屁理屈
下記のような屁理屈の迷路にハマっている感じもする。
死ぬとは、世界から切り離されること。ここまでは良いが次が問題で、世界とは自分が感覚している情景のみだという思い込みがある。これがあるので、自分が死ぬ瞬間に世界も消え失せるから切り離されるわけじゃない、という理屈になってしまっている。だから自分は死なない、というわけだ。
いつからこんな偏屈になってしまったのだろうと思い返してみると、そういや高校生の頃もこんなことをずっと考えていて、人が死ぬ直前と直後で質量が変化したというオカルトチックな実験の結果に惹かれたりした。生きている意味や価値が物理量で表現できたことに一時的に救われたのだと思う (なお科学的に根拠があるかは不明)。
悩める思春期の高校生としては健全だろうけど、10年近く経って未だに成長していないのはやっぱり何らかの病気なのかね。