ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

彼女の何度目かの嘘とエンディング

ちゃんと書くのは実に8ヶ月ぶりだ。その間、30歳という大台に乗ったり、転職こそしていないものの、尊敬していた先輩が辞めていったりイマイチ仕事のやる気が出ず悶々としたり(というのは現在進行中でもあるが)、趣味のバンドも調子が乗らなかったり、まあ生きていれば色々あるなといった感じで過ごしていた。

それでも一番自分の頭の中を占めていたのは今年から始まった同棲生活だろう。いくつかの試練もなんとか乗り越えたし、いい年した男女が付き合って一年になるわけだ。こんな僕でもそろそろ次のステップに進まないといけないなと思っていた。

決心こそできなくともその心境を変化を何度もここに書こうとしたが、漠然としたモヤモヤの正体がわからず今日までダラダラやってきたが、思いもよらぬ形で終わりが訪れた。

嘘だけは嫌だった。ましてや不倫、しかも僕の上司とだなんて。体調が悪いわけではないのにこんなに激しい目眩を感じたのは初めてだ。

僕だって大してまっとうな生き方はしてこなかったが、家を出てから今日まではそれなりに誠実に、少なくとも人を傷つけることはしてこなかった。だからこそ他人と関わるのは凄く怖かったし、言葉では「流された」なんて言って照れ隠ししてきたけれど、今回の同棲はもの凄い決心とともに踏み切ったつもりだった。

同棲を始めてから、元カレ(他の!)の件でも色々あった。お金の事情があるとは言え、もう連絡を取るのを止めて欲しいと彼女に頼む自分は束縛し過ぎなんだろうかと大いに悩んだ。何度もここに書こうとしたが、なんとか自分の気持ちを整理して乗り切った。

他にも大きな嘘はあったものの、「男は度量」と自分に言い聞かせて(ある意味酔っていただけだが)、これでようやく落ち着けるだろうと前向きになれた矢先だったからなおさら衝撃的だった。

2年前に僕が入社したときから、その彼女と僕の上司はよく二人でランチに行っていて、夜も二人で飲み屋街を歩いているのを度々見かけていたので仲が良いのは知っていた。一応隠れて行っているつもりらしいが、昼時に会社近くで他の社員に会わないわけもなく、公然の秘密といった感じ。今でも毎週1度は二人で会っている。

付き合って間もない頃、僕は情けないと思われるのを承知で「嫉妬してしまう」と言ってみたことがある。するとまあ当然「向こうは奥さんいるし、そんな関係じゃない、ただの友達」と否定してくれた。心から納得はできなかったが、嘘であったとしても、これからの未来それが本当になれば良いなと信じることにした。

そして今日物語が急展開した。

彼女は携帯やPCにロックをかけていて、お互いのプライバシーは守るつもりでこれまでやってきたが、これまでの彼女に対する疑いを拭い去ることができず、今日つい魔が差してしまい、彼女が昼寝をしていたときに開きっぱなしの無防備なPCを覗いてしまった。そこには会社で使っているチャットツールが入っており、過去のプライベートメッセージを全て読み返すことができる。遡れば遡るほど生々しいやり取りが見つかり、途中から僕は意識が飛びそうだった。

あの日体調が悪いと言って先に帰った日は二人だけで会っていて、僕に作ってくれたチョコレートケーキは、半分は友達に渡すと言っていたのに同じものを上司が食べている。当然、上司からのお返しという名目の夜もあったようだ。

そういや、社内では僕と彼女の関係は秘密にしておこうと言っていたのにその上司には早い段階で報告していて、僕からしたら普通に仕事上の上司なので面食らったのだが、今思えばそりゃ当然話すわなと納得。付き合ってたんだから。

確認できているのは社内チャットのやり取りだけなので、正直、今どんな関係が続いているのはわからない(LINEにはどんな絶望が待ってるんだろう)。

今は本当に飲みにいくだけの関係なのかもしれない。僕のために優しい嘘をついているのかもしれない。

女性は別れたあとも元カレと友達でいられると聞いたことがある。多分男と女では精神構造が違うんだろう。

それでもやっぱり、彼女が上司に会いに行くのを見送るのは嫌だ。もの凄く嫌だ。

これらすべてを問いただしたら彼女は何と言うだろう。覗き見した僕を責め立てて家から出ていくんだろうか。それとも会社は辞めて二度と上司と会わないと言うんだろうか。

仮に後者であっても、僕はもう彼女を信じることはできない気がする。本当に、ただただ馬鹿で、可愛そうな子だなと思うだけだ。

そして上司は何もかも知った上で、何食わぬ顔で僕のプライベートの話題を振っていたわけだ。それを考えるともうこの会社ではやっていける気がしない。転職意向が無かったわけではないが、思わぬしっぺ返し過ぎて逆に笑えてくる。


書くのは久々だったが感情を文章にするのはやっぱり良い。おかげでちゃんと精神を保てそうだ。

次回はおそらくエピローグを書くことになるだろう。

新生活

来週から家族以外の人間と一緒に暮らすことになる。数年前にレタス農家で2ヶ月間だけ、同世代の男とタコ部屋で生活していたのを除くと人生で初めての経験だ。新しい生活が始まってから書いても良かったんだけれど、始まる前の不安や高揚感をここに残して置きたかったので書くことにする。

実家を出て独りで東京に来てから3年半になる。仕事以外ではほとんど外出しない出不精なこともあって、未だに駅や路線の名前を聞いてもピンとこないけれど、まあそれなりに生活はできていたし、これからもそれなりな毎日がそれなりに続くだけだと思っていた。というのが去年の夏頃までの話で、前回も書いたが、全く予期してなかったイベントが突如発生し、適当に流れに身を任せていたらいつの間にか同棲なんてものを始めようとしている、というのが現在の状況。

やっぱり今でも、これは本当に自分の人生なんだろうかという違和感が凄まじい。このあいだ振られる夢をみた時も、悲しみよりも「ですよね」という納得感が先行していた印象がある。決して嫌では無いし充実感で満ちているのは確かだけど、これまで引きずってきた中途半端なニヒリズムと自己嫌悪癖(中二病とも言う)が、もう骨の髄まで染み付いているんだと思う。

付き合って5ヶ月目で同棲スタートというのは結構早い方だそうだ。相手が賃貸の更新時期を話題に出したので僕が引越しを提案してみたわけだけど、今思うと賃貸の話題は実は意図的な前振りで、僕は相手のシナリオ通りに事を進めているだけなのかもしれない(まあ全然悪い気はしないしそれも面白いなと思う)。

同棲の話題を出した頃、僕はとても焦っていた。年齢も年齢だし、前みたいに相手を勘違いさせた挙げ句、自分はともかく相手の時間を浪費させてしまうようなことは決してしたくなかった。別れるのかあるいはこの先長く付き合っていけるのか、それをお互いに早く見極めるにはどうすべきかということばかり考えていた。だから早めの同棲というのは僕としては至極当然な答だった。

世間ではまだまだ婚約前の同棲に否定的な人も少なくないようだけれど、お互いを知るためには一緒に暮らすのが手っ取り早いだろう。もし急いで同棲に踏み切ったせいで振られることになっても、彼女が時間を無駄にせずに答を出せたならそれはそれで本望だ、と言えるくらいの覚悟はある(これを覚悟と言えるかはともかく)。

といったところが新生活に臨む僕の心境だ。これで来月には「嫌われない努力」なんてことしていたら目も当てられない。

勝手に進む人生

気付けば半年も書いてなかった。特段仕事が忙しかったわけではないし、生活環境が変わったわけでもない。それでもなんとなく気分が落ち着かず、気持ちを言葉にすることができずにいた。理由ははっきりしていて、端的に言うと僕は年甲斐もなく恋愛とかいうやつに振り回されていた。

顔や性格や収入はともかく、僕には自分の過去に対する引け目もあって、これから先、異性と深い関わりをもつイメージは全く抱いてなかった。最低限の人間生活はしつつ、ずっと独りで生きていくものだと納得しきっていた。それはそれで堕落しつつも安定した精神状態であったというのに、面白いことにその均衡を壊してくる人が現れた。

顔見知りではあったもののこれまで特に意識したことが無かったし、自分から話しかけることもまず無かったんだけれど、まあせっかくこんな自分に興味をもってくれたのだし、相手が満足して飽きるまで、とりあえず全力で自分というものをさらけ出してみようかと思った。会話は下手だし、良い店は知らないし変なタバコを粋がって吸うし、酒は弱いくせに無理して飲むし、まあ所詮こんな人間ですよ、と表現することが僕なりの誠意だった。

でもどうやらそれがまずかったらしく、あとはもう転がるように僕の方からのめり込んでいってしまった。とても恥ずかしいことを書くと、相手を知ったから好きになる、という単純な順接ではなくて、相手が自分をどう理解してくれたのか、そういうフィードバックを心地良く感じられた時、より相手を好きになってしまうことを今更ながらに知った。

そんなこんなで、今の僕は何故だか普通の人生を生きている。 恋や結婚なんて普通の人間だけがやるものだと思っていたし、この半年、色々な状況を過ごしてきて、やっぱり今でもそう思っている。

一年前の自分が思い描いていた未来と現状とのギャップがあまりにも大きく、今は偶然停まったタクシーに乗って、行き先も告げず揺られている感覚だ。面白いのは、少し視線を変えれば、自分で呼ばなくても未知のタクシーはいくらでもあることに気づいたことだ。

数カ月後、僕は人生のどこを進んでいるんだろう。

禁煙

最近、図書館で煙草に関するエッセイ集を借りた。ひたすら煙草を称賛する言葉で始まったかと思うと、逆に喫煙者に対する非理解を主張するものもあったりして読み物としてなかなか楽しめた。その中で禁煙に対する考察がいくつかあり、著者が誰だったかは忘れたけれど、「自分を内省的に観察するきっかけ」という文章が印象深かったので自分も一度体験してみようと思ったわけだ。

煙草を我慢する時、自分は何を思うんだろうか。喉の乾き、あるいは空腹、それとももっと違った新しい欲望を感じるんだろうか。自分の中に大きな執着を発見できるんじゃないかと期待していた。

だけど結果は案外につまらないもので、特に強い渇望感を感じるまでもなく、予定していた5日間の禁煙期間が過ぎてしまった。

はじめのうちは喪失感のようなものを感じたりもしたし、煙草が解禁される直前はそれなりにそわそわしていた。その時々で落ち着いて自分に問い直す。「何を求めているのか」

医学的な依存性という意味で、やっぱりニコチンという物質そのものを求めているのかもしれないし、もしかしたら不良少年のように何かに火を点けたい衝動があるのかもしれない。

そこでふと煙草の箱とライターを手に持ってみると不思議と落ち着いている自分に気付く。火の点いていない煙草を右手に持ちながら頬杖をつくのも良い感覚だ。これだけ喫煙行為の7割ぐらいは達成しているのかもしれない。そんな骨董無形なことを考えたりもする、この無駄な時間を僕は求めているようだ。

ただ物質としての煙草を欲しているのではなく――生理学的な依存はありそうだけど、おそらく自分は煙草によって作られる、こういった空白の時間に惹かれているのだとわかった。

ところで禁煙後の1本は美味いという話をよく聞く。前に読んだ本などではそのために定期的に煙草を断っているという人もいたが、さて自分はどうだったか。

たった5日間という短い断煙期間だったからか、感動するほどの体験は無かった。むしろ自分はこんなものを習慣化していたのかという違和感の方が強く、復煙して数日経ってもそれは消えずに残っている。

でもだからといってこのまま煙草を卒業できるわけではないようだ。そこに「不快だから拒否」という単純な論理は通らず、「こんなもの」と思いながら、いや思っているからこそダラダラと不毛な付き合い――まるで人間関係のようだ――を続けてしまうのだろう。

参考: 『もうすぐ絶滅するという煙草について』

彼の罪

彼は達観しているとか虚無主義だとか、そういう言葉で他人から形容されることが多い。何故そんな人格をもつに至ったのか問われると、「何故でしょうねえ」と毎回適当に受け流すが、実は彼の人生の中で大きな転換点があったことを「私」は知っている。

彼は罪を背負っていた。宗教の原罪的なものではなく、文字通りの意味でのそれである。もう10年以上も前のことではあるが、ある卑劣な行為によって多くの人を傷つけ、家族や周りの人との関係も破壊してしまった過去をもつ。家族との断絶が解消されることはなく、関係者の苦悩は今も続いている。

「あの時点で人生を終わらせるべきだったかもしれないのに今日も生きている」

酔うと彼は独り言のように呟く。「死んでしまっては償いが出来ない」という理屈は、部外者からすれば真っ当そうに聞こえるが、彼にとっては、それがただの建前で結局は自分本位な言い訳だったように思えて仕方がないのだ。

そこには高尚な哲学や思想なんて無く、ただ迷いと諦めだけが彼を満たしている。

反省

犯罪を犯したものが救われるか否か。難しい問題ではあるが、現実の社会では「反省」がポイントになっている。反省とは一体何だろう。

普通の前科者と同様に、彼は同じ過ちを犯さないつもりでいる。経済援助というカタチとしての賠償も継続的に行っているし、表面的には反省しているように見える。でもそれだけでは本当の意味での反省にはなりえない。足りないのはもっと精神的な何かであると、彼もそこまでは理解できているけれど、贖罪の気持ちが自分にあるのか無いのか、あるいはあったとしても自覚出来ていないだけなのか、全く釈然としないのだそうだ。世間的にはそれは反省していないということになる。彼は気付いていないだろうが、もしかしたら精神医学的な欠陥があるのかもしれない。

彼は自分の行いに「悪」というラベルを付けることに何の意味があるのか、いつも問うている。行い自体を罰することは出来ないし、あくまでその対象は行為者にあり、悪はその人自身だというのが彼の持論である。そのような極論を振りかざさないと自分のアイデンティティを保てないのだろうか。

ある意味でそれも反省と呼べるのかもしれない。10年前のあの日の衝動を思い出すことは難しくても、その行為者が今の自分と同じ存在であり、何かの拍子にあの時の凶暴性が戻る可能性が0でないことを知っている。だから彼は自分の理性を全く信用していないし、「2度とやらない」という宣言をとても空虚なものとして捉えている。

人間関係

人を不幸にするくらいなら最初から関わらない方が良いのだろうか。誰だって好意をもってもらうことは非常に嬉しいし、抗いがたい承認欲求はある。もちろん彼も例外でない。

去年の今頃、彼には交際相手がいた。普段は仏頂面で人を寄せ付けないオーラをまとっているのだが、当時は珍しく気が緩んでいたのか、「好意に甘え、流されてしまった」のだそうだ。相手を欺いているという後ろめたさに気付きながらも、自分の欲求をなんとか正当化しようとして、妙な高揚感と絶望感に振り回されていたという。

結局我慢できなくなり、隠していた過去を全て洗いざらい話してギクシャクして関係が終わったそうだが、それによって自分の人間関係に対して諦めというか、ある種の納得感のようなものが芽生えたらしい。確かに今の彼は、人を寄せ付けないというより存在感が希薄で、相手に何らかの印象を与えることすら避けているように見える。

彼は今後どういう人生を歩むのだろうか。少なくとも、結婚して子供を設けて、といった普通の家庭に落ち着くことはまず無いだろう。一方であの雰囲気ではビジネスで成功することも無さそうだ。

「誰の記憶にも残らない程鮮やかに消えてしまうのも悪くない」

そう聞こえた気がして振り向いたらもういなくなっている。そんなイメージが一番しっくり来てしまう。


「私」は彼とは非常に近い間柄であるので、文章が少し同情的になってしまった感がある。見ようによっては、自分の罪を重く受け止めすぎた哀れな人間に思えるかもしれない。

しかし冷静に向き合えば、そこにいるのは、悪者であることに酔っている独りよがりなエゴイズムだ。「償い」やら「反省」という言葉を発しながらも、深層心理では自分が被害者であると考えていて、本当に救いたいのは結句、自分だけなんだろう。

これらを彼に直接伝えることは難しいので、ここに書き留めておく。