ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

2018年春 その2

毎日会社に通うことで、常にそこにある漠然とした退屈をなんとか紛らわしている。

基本的に9時に出社するが、気分が乗らない時は1時間遅らせることもある。本当にダメな朝は社内Slackで「本日お休み頂きます」と呟けばそれで有給取得となる。部署によってはもっと厳しい――というかサラリーマン的には一般的な就業ルールが設けられているところもあるが、僕が属するエンジニアグループのみがフレックス制を採用していることに加え、上長の緩い気質というのも相まって、社内でも特段マイペースな集団として見られているようだ。

自分の役割は所謂Webエンジニアで、規模が数十倍になったことを除けば、前職の頃とやっていることはあまり変わらない。自社のサービスの改修やら新規開発やらをひたすら回していく。

前職と大きく違うのは、設計や実装で躓いた時、それを相談できる相手がいるということだろう。1年前はたった一人で答を出さなければならず、その答が正しいかどうかわからない状況で、ただがむしゃらに進むしかなかった。そういう意味ではあの頃ほどの積極性は今は無くなってしまったけれど、当時悩んでいたようなことは今の自分ならそれなりに確信を持って解決できるし、一応この1年で多少は成長出来たと言えそうだ(自分に甘いので、人にも甘い)。

昼休憩もエンジニアは自由だ。他の部署はきっかり時間が決まっていたり、業務をしながらコンビニ飯を頬張るような忙しい人もいる中、僕は毎日公園まで散歩したり近くの図書館に本の交換――常に手元に読む本を置いておきたい――しに行ったりする。そういう、仕事とは全然関係の無いことを考えたりする時間が僕には必要なようで、それがないと夕方頃には完全にダメになってしまう。自分ではテキパキとコードを書いている気がしていても、実際は全く見当違いなことをやっていたり、後から大幅なやり直しを食らうことが稀によくある。だから僕は自分の主観的なやる気というものをあまり信頼しておらず、どこかのタイミングで必ず休憩を挟むようにしている。

案件調整、設計、実装、レビュー、リリース、報告…その繰り返し。前職だとたまにスーツを着て営業に行ったり電話対応などもやっていたので、業務範囲はかなりシンプルになった。先に述べたような、この1年弱における無意識的なスキル向上は、コードに向き合う時間が増えたことに起因するのかもしれない。今では当たり前のように慣れてしまったが、コードレビューという制度も、入社当時の自分にとってはかなり大きなカルチャーショックだった。

帰宅時間は人によるが、未だ黒字化を果たせていないベンチャー企業にしては全体的に早めかもしれない。僕は入社当初は埼玉から通っていて、その頃は通勤が大変面倒でかなり遅くまでダラダラと残っていたけれど、最近は近場に引っ越したことで逆に帰る時間が早くなってしまった。

自社サービスの開発ということで「締め切り」という概念がほぼ無く、エンジニアには「どうしても今日までにやらねばならない仕事」というものも降ってこない(というか拒否する)。担当エンジニアの裁量が大きいので自分の納得がいくやり方で案件を進められるし、逆にサボろうと思えばいくらでも――ある程度はサボることも出来て、そして帰りたい時に帰れる。あまり意識していなかったが、こうやって言葉にすると、現代の一般的な若者が求めそうな職場環境を十分に享受していると言えるのかもしれない。

さて、この会社にはいつまでいるのだろう。自分が辞めるのが先か会社が無くなるのが先か。上場を目指す――社長の号令に胸が高鳴らないことも無いが、正直まだこの仕事を「自分事」にできているとは言えない。それを判断しようとする努力もしていない。どちらに転ぼうとも、自分の中に何らかの刺激や展開、決心が必要なのに見通しは暗い。そんなモヤモヤをベランダで煙と一緒に吐き出して床に就き、明日も何食わぬ顔で会社に行くのだろうな。

2018年春 その1

穏やかな春を過ごしている。

早朝、鳥が鳴き出す頃にベッドから抜け出し、電気ケトルの湯が沸くまでベランダで一服。業務スーパーで売っていた大して美味くも無いインスタントコーヒーを飲みながら、図書館で借りている数冊の本から適当なものを選んで読み進める。

1時間ほど経つと人や車の通りが増え、段々と街に慌ただしさが溢れてくる。その頃には自分の頭も平日モードに切り替わっていて、家を出るまでに行う支度とその時間配分の計算に支配される。本当は常にゆったりと時間を過ごしたいので、そんな些末なことは考えたくもないのだけれど。

シャワーを浴びた後は適当に朝食を済ませる。朝はパスタが多い。手軽に作れて腹持ちが良い上に、余った野菜の最終処分場としての機能も十分に備えている、独身者向きの料理だ。中でもカルボナーラ的な何か(正しい作り方を知らないし、とりあえず卵と粉チーズとブラックペッパー入れとけば良いと思ってる)をよく作るが、貧乏性を発揮して白身までしっかり入れてしまうので、見た目がなんかこうぐちゃっとした、大変残念な感じになる。料理は視覚情報も大事だと言うけれど、自分が作る場合はすでに味の予想がついているので見た目はあまり関係無い気がしている。

最近は自宅の最寄り駅ではなく、15分程度歩いた先の駅から乗るようにしている。毎朝徒歩15分はそれなりの距離だと思うが、通勤路である川沿いの遊歩道は不思議と距離を感じさせない。少しずつ進んでいく橋の改修工事を眺めるのも、毎日のちょっとした楽しみになっている。

ただ突っ立っているようにしか見えない工事のおじさんに挨拶したりもする。確か最初は向こうから声をかけてきて、僕がそれに応じて以来何となく習慣になってしまった。立ち止まって話をするわけではなく「おはようございます」だけ。会話したところで展開が無いだろうしお互いそれを望んでもいない。そういう妙な刹那的な関係というのがなんだか面白い。まあ僕の一方的な想像だけれど。

挨拶と言えば、朝の遊歩道ですれ違う人たち全員に挨拶して、相手が困惑する様子を楽しむという遊びなんてどうだろうか。例えば堂々と歩きタバコをする陰鬱な男がにこやかに挨拶してきたら、普通の人はどんな反応をするのだろう。挨拶を返す人、無視する人の割合は?年齢や性別で傾向はあるんだろうか?

そんなくだらないことを考えていると駅に到着している。そこから15分後にはオフィスの自分の席に着いていて、毎日10秒以上ずれる腕時計を正しく合わせた後、さて、ようやく仕事が始まる――。


去年の今頃とは仕事も住む場所も変わって、全然違う生活をしていることを思い出した。連続した日々に流されているとそういった差分に気付きにくいので、何の変哲もないある1日の生活の文章化を試みたが、意外とどうでも良いことの積み重ねだけで分量が多くなりそうだったので一旦ここで終わっておく。

煙草吸うようになった

僕はそろそろ30になるというのに最近まで一度も煙草を吸ったことが無く、特に嫌煙という訳ではなかったものの、大学生になって周りが一斉に吸い出す流れに乗るのが恥ずかしくて(今となってはその妙なプライドの方がよっぽど恥ずかしいが)、なんとなく非喫煙者として生きてきた。

それがつい半年ほど前、僕は喫煙者になった。

漫画や小説に惹かれて、というありがちな動機はなく、当時興味があったのは煙草そのものよりも最近の喫煙者への風当たりの強さだった。

単にポイ捨てや歩き煙草を非難するだけでは飽き足らず、喫煙者という存在自体を否定するような風潮が強くなっているのは、非喫煙者から見ても明らかだった。twitterでは当たり前のように「死ね、殺せ」という暴力的な言葉が飛び交い、少しでも喫煙者を擁護しようものなら徹底的に叩かれる。

確かに受動喫煙による健康被害歩き煙草の危険性については的を射た主張だと思えるが、喫煙者の人格への攻撃も許容されるような雰囲気はあまり健全でない気がしていた。

そしてどういう訳かその渦の中に入ってみようと思いたち、コンビニで1箱だけ煙草を買ったのがきっかけとなり、その後は1日数本のペースで吸う立派な(語弊がある)喫煙者となってしまった。

実際に喫煙者として過ごしてみるといかに喫煙可能な場所が少ないか実感することになった。それなりに大きい公園でないと喫煙スペースは設置してないし、灰皿が置いてあるコンビニの方が少なくなっている(まああれは喫煙所ではないが)。カフェの喫煙席も駅前だと言うのにかなり小規模で、昼時を過ぎても喫煙席だけが満席という光景もよく見られる。

カナダでは屋内禁煙を徹底した後に路上喫煙が急増したらしいが、日本もオリンピックに向けてそうなっていくのだろうか。

路上喫煙と言えばよく槍玉に挙げられるのが歩き煙草だ。非難を恐れずに告白すると、少し前まではよく深夜1時頃に煙草を吹かしながら散歩していたのだが、あれはなかなか気持ちの良いものだった。ただ歩いているだけだとつい考えすぎて足だけでなく精神的に疲弊することがよくあるが、煙草を吸いながらだと丁度良い具合に思考に空っぽのスペースを作ってくれるような感覚があり、歩いた後の爽快さがたまらない。真夏に吸ったことは無いが、おそらく冬の寒さの中で吸う煙草が一番ウマいと思う。

いくら「ルールを守らない大人はカッコ悪い」とキャンペーンを展開したところで快感には勝てない。やるなら罰金を徹底するとかじゃないと歩き煙草は減らないだろう。ルールを守っていない僕が言うのもあれだけど。

副流煙を嫌がる人の感情は、少し前まで僕も非喫煙者だったのでよくわかる。だから基本的に人前では吸っていない。分煙と言っても喫煙席から煙をまとって出てくるだけで禁煙席の人は顔をしかめるし、居酒屋でも今や大半の人が吸わないので、席に座ったまま吸うことは絶対ない。自宅ベランダも隣人の洗濯物に臭いがついては申し訳ないので深夜以外は自粛している。

これほどまでにコソコソとしないと煙草を吸えないことに窮屈さを感じつつも、逆にそれによってあるべき居場所が見えるような、そういう感覚が妙にしっくりきてしまう自分がいる。多分僕はこのまま喫煙者としてやっていくことになりそうだ。

合コンで雰囲気悪くしてきた

久々に合コンに行ったらやっぱりダメだった。自分一人が恥を掻くとかならまだしも、会全体をダメにするような振る舞いをしてしまって久々に後悔。その代わりと言ってはなんだけどダメな理由が明確にわかった気がする。

コミュ力が無い人には色んなパターンがあると思うけど、僕の場合それを分解してみると、「人に興味をもてない」のと「楽しんでるフリができない」という2つの性質が大きく作用しているっぽい。

人に興味をもてないという時点でもう終わってるんだけど、それでも最初は頑張って普通に話そうとはする。でも1時間ぐらい経つと初対面の人のことをもっと知ろうとする努力が続かなくなって、すぐに会話に飽きてしまう。「ああ、この人はこういう人なのか、大体わかった」という感じで勝手に自分の中でその人のイメージを完結させてしまって、それ以上深く話すことが億劫になる。

エンジニアの勉強会や懇親会で初対面の人と話すこともあるけれど、あれは適当なテーマが提供されているし情報交換という意味合いが大きい。「人」を見なくても会話できるという点で合コンとは全然違うので、僕でもどうにか人並みにやれている。

とにかく他人に注目し続けることが苦手で、こればっかりはどうやっても頑張れそうにないので諦めている。なので表面上でも「楽しんでるフリ」ができればまだマシだけど、それもダメだったりする。

会話に飽きてもそれを表に出さないのは大人のマナーだろう。僕は普段はポーカーフェイスというか無口無表情なのに、どうやら酔うとそれを隠せなくなるようだ。退屈しのぎを探そうとして店内装飾やメニューを意味もなく見回したりしてしまう。トイレに行ったりすると戻るのが面倒になって、壁に貼られた求人広告を無駄に読み込んだりして時間を潰したりもする。

シラフになって思い返すと失礼な態度としか言いようが無くて、本当にもう最低だなと思う。そういう雰囲気はすぐに伝わって、それで相手も話す気が無くなって終了という感じ。コミュ力0どころかマイナスに振り切ってるなあと実感した。

話せないなら話せないで、ただ楽しそうに頷いていれば良かったんだろうか。いやそれこそ我慢できないだろうし、どの道ダメなんだと思う。

今回誘ってくれた会社の先輩には悪いことをしたけど、「合コン苦手なんです」と言った本当の意味が伝わったはずなのでもう金輪際誘われることは無さそうだ。今度誰かに誘われたら「すぐに退屈したり人を見下したり、とにかく僕が行くと雰囲気悪くなるんでやめときます」とちゃんと断ることにしよう。

深夜に散歩しながらホームレスの数を数えてきた

先週、都内の某公園を歩き回って、屋外で一夜を過ごすホームレスの人数やその様子を調査するイベントに行ってきた。 深夜1時頃に集合し、軽く自己紹介などをしてから3〜4人からなるグループに分かれてそれぞれ調査を開始した。

ある程度の寒さは覚悟していたが、広い公園だからか横風が強かったように思う。池も凍っていたし、こんな寒い日の夜中にゾロゾロと連れ立って徘徊する自分たちの姿はなかなか怪しかっただろう。

そしてその日、こんな環境の中に寝床を作って眠るホームレスを僕らは15人見かけた。

建物の壁にそって数人程度集まって寝床を作っている人が多かった。おそらく吹き付ける風の量によって体感温度が大きく変わってくるので、「基本は壁沿い」というのが寒空の下で眠りにつくための最善策なのだろう。

また複数人で群がるのは身の安全のためだと想像できる。ホームレス狩りなど、事件として報道されるのは年に1回ぐらいだが、表に出ないいたずらや嫌がらせは多分その何十倍もあるんだろう。彼らにとって、一般の人間が一番怖いという話はよく聞く。

いわゆるダンボールハウスのようなしっかりとした「家」は1例見かけただけで、他は全て傘や数枚のダンボールで軽く囲いを作り、その中で毛布や寝袋にくるまって眠っていた。 最近の東京はオリンピックまでに街を「浄化」したいのか、ホームレスに対する締め出しが厳しいらしい。「家」が撤去されるリスクを考えると身軽な方が良いという合理的判断なのかもしれない。

明らかに彼らの荷物と思われる、ブルーシートで覆われた収納ケースや台車も見かけた。それらはメイン道路ではないが比較的人通りの多い歩道に置かれていて、おそらく「倉庫」として利用しているのだと思う。公園の茂みなどに隠してしまうと逆に盗まれやすいという経験則が働いていそうだ。

そんなこんなで3時過ぎまで歩いたが、言葉は悪いけどある種の宝探しゲームのような感覚があって、体感としてはあっという間の2時間だった。 その後はファミレスで集計や振り返りをして、4時過ぎには全ての作業が終わった。

その日は都内の何箇所かで同じ取り組みを同時開催していたのだが、合計で100人近くが参加していたそうだ。 僕はたまたまネットで見かけて応募してみたのだけれど、そういう人は珍しいらしい。僕のグループの人たちも、過去に参加経験があったり、運営と直接繋がりのあるような人だった。

一応ボランティアという名目だけれど、僕としては完全に興味本位での参加だったのであくまで「イベント」だと思っている。というかそのくらいの感覚の方が敷居が下がるし、結果的にこういう社会問題に関心をもつ人を増やせるんじゃないだろうか。調査自体も目的の一つではあるけれど、僕のように普段はホームレスとは何の関係もない(と思っている)人を巻き込んでいくことに大きな意味がある。

ただし、敷居を下げすぎるとそれはそれで問題になりそうなのが難しいところだ。ボランティアってなんか恥ずかしいからもっと軽い気持ちで参加できるようにしたいけれど、だからと言って遊びに来られては困る。そういう活動を示すちょうど良い言葉が日本語に無いのもまた問題か ...

2月3月は僕の自宅近くで開催されるようなので、都合が合えばまた参加してみようかと思う。

一応、詳しい調査結果と運営団体のサイトをのせておこう。 http://archcd.wixsite.com/arch