ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

煙草吸うようになった

僕はそろそろ30になるというのに最近まで一度も煙草を吸ったことが無く、特に嫌煙という訳ではなかったものの、大学生になって周りが一斉に吸い出す流れに乗るのが恥ずかしくて(今となってはその妙なプライドの方がよっぽど恥ずかしいが)、なんとなく非喫煙者として生きてきた。

それがつい半年ほど前、僕は喫煙者になった。

漫画や小説に惹かれて、というありがちな動機はなく、当時興味があったのは煙草そのものよりも最近の喫煙者への風当たりの強さだった。

単にポイ捨てや歩き煙草を非難するだけでは飽き足らず、喫煙者という存在自体を否定するような風潮が強くなっているのは、非喫煙者から見ても明らかだった。twitterでは当たり前のように「死ね、殺せ」という暴力的な言葉が飛び交い、少しでも喫煙者を擁護しようものなら徹底的に叩かれる。

確かに受動喫煙による健康被害歩き煙草の危険性については的を射た主張だと思えるが、喫煙者の人格への攻撃も許容されるような雰囲気はあまり健全でない気がしていた。

そしてどういう訳かその渦の中に入ってみようと思いたち、コンビニで1箱だけ煙草を買ったのがきっかけとなり、その後は1日数本のペースで吸う立派な(語弊がある)喫煙者となってしまった。

実際に喫煙者として過ごしてみるといかに喫煙可能な場所が少ないか実感することになった。それなりに大きい公園でないと喫煙スペースは設置してないし、灰皿が置いてあるコンビニの方が少なくなっている(まああれは喫煙所ではないが)。カフェの喫煙席も駅前だと言うのにかなり小規模で、昼時を過ぎても喫煙席だけが満席という光景もよく見られる。

カナダでは屋内禁煙を徹底した後に路上喫煙が急増したらしいが、日本もオリンピックに向けてそうなっていくのだろうか。

路上喫煙と言えばよく槍玉に挙げられるのが歩き煙草だ。非難を恐れずに告白すると、少し前まではよく深夜1時頃に煙草を吹かしながら散歩していたのだが、あれはなかなか気持ちの良いものだった。ただ歩いているだけだとつい考えすぎて足だけでなく精神的に疲弊することがよくあるが、煙草を吸いながらだと丁度良い具合に思考に空っぽのスペースを作ってくれるような感覚があり、歩いた後の爽快さがたまらない。真夏に吸ったことは無いが、おそらく冬の寒さの中で吸う煙草が一番ウマいと思う。

いくら「ルールを守らない大人はカッコ悪い」とキャンペーンを展開したところで快感には勝てない。やるなら罰金を徹底するとかじゃないと歩き煙草は減らないだろう。ルールを守っていない僕が言うのもあれだけど。

副流煙を嫌がる人の感情は、少し前まで僕も非喫煙者だったのでよくわかる。だから基本的に人前では吸っていない。分煙と言っても喫煙席から煙をまとって出てくるだけで禁煙席の人は顔をしかめるし、居酒屋でも今や大半の人が吸わないので、席に座ったまま吸うことは絶対ない。自宅ベランダも隣人の洗濯物に臭いがついては申し訳ないので深夜以外は自粛している。

これほどまでにコソコソとしないと煙草を吸えないことに窮屈さを感じつつも、逆にそれによってあるべき居場所が見えるような、そういう感覚が妙にしっくりきてしまう自分がいる。多分僕はこのまま喫煙者としてやっていくことになりそうだ。

合コンで雰囲気悪くしてきた

久々に合コンに行ったらやっぱりダメだった。自分一人が恥を掻くとかならまだしも、会全体をダメにするような振る舞いをしてしまって久々に後悔。その代わりと言ってはなんだけどダメな理由が明確にわかった気がする。

コミュ力が無い人には色んなパターンがあると思うけど、僕の場合それを分解してみると、「人に興味をもてない」のと「楽しんでるフリができない」という2つの性質が大きく作用しているっぽい。

人に興味をもてないという時点でもう終わってるんだけど、それでも最初は頑張って普通に話そうとはする。でも1時間ぐらい経つと初対面の人のことをもっと知ろうとする努力が続かなくなって、すぐに会話に飽きてしまう。「ああ、この人はこういう人なのか、大体わかった」という感じで勝手に自分の中でその人のイメージを完結させてしまって、それ以上深く話すことが億劫になる。

エンジニアの勉強会や懇親会で初対面の人と話すこともあるけれど、あれは適当なテーマが提供されているし情報交換という意味合いが大きい。「人」を見なくても会話できるという点で合コンとは全然違うので、僕でもどうにか人並みにやれている。

とにかく他人に注目し続けることが苦手で、こればっかりはどうやっても頑張れそうにないので諦めている。なので表面上でも「楽しんでるフリ」ができればまだマシだけど、それもダメだったりする。

会話に飽きてもそれを表に出さないのは大人のマナーだろう。僕は普段はポーカーフェイスというか無口無表情なのに、どうやら酔うとそれを隠せなくなるようだ。退屈しのぎを探そうとして店内装飾やメニューを意味もなく見回したりしてしまう。トイレに行ったりすると戻るのが面倒になって、壁に貼られた求人広告を無駄に読み込んだりして時間を潰したりもする。

シラフになって思い返すと失礼な態度としか言いようが無くて、本当にもう最低だなと思う。そういう雰囲気はすぐに伝わって、それで相手も話す気が無くなって終了という感じ。コミュ力0どころかマイナスに振り切ってるなあと実感した。

話せないなら話せないで、ただ楽しそうに頷いていれば良かったんだろうか。いやそれこそ我慢できないだろうし、どの道ダメなんだと思う。

今回誘ってくれた会社の先輩には悪いことをしたけど、「合コン苦手なんです」と言った本当の意味が伝わったはずなのでもう金輪際誘われることは無さそうだ。今度誰かに誘われたら「すぐに退屈したり人を見下したり、とにかく僕が行くと雰囲気悪くなるんでやめときます」とちゃんと断ることにしよう。

深夜に散歩しながらホームレスの数を数えてきた

先週、都内の某公園を歩き回って、屋外で一夜を過ごすホームレスの人数やその様子を調査するイベントに行ってきた。 深夜1時頃に集合し、軽く自己紹介などをしてから3〜4人からなるグループに分かれてそれぞれ調査を開始した。

ある程度の寒さは覚悟していたが、広い公園だからか横風が強かったように思う。池も凍っていたし、こんな寒い日の夜中にゾロゾロと連れ立って徘徊する自分たちの姿はなかなか怪しかっただろう。

そしてその日、こんな環境の中に寝床を作って眠るホームレスを僕らは15人見かけた。

建物の壁にそって数人程度集まって寝床を作っている人が多かった。おそらく吹き付ける風の量によって体感温度が大きく変わってくるので、「基本は壁沿い」というのが寒空の下で眠りにつくための最善策なのだろう。

また複数人で群がるのは身の安全のためだと想像できる。ホームレス狩りなど、事件として報道されるのは年に1回ぐらいだが、表に出ないいたずらや嫌がらせは多分その何十倍もあるんだろう。彼らにとって、一般の人間が一番怖いという話はよく聞く。

いわゆるダンボールハウスのようなしっかりとした「家」は1例見かけただけで、他は全て傘や数枚のダンボールで軽く囲いを作り、その中で毛布や寝袋にくるまって眠っていた。 最近の東京はオリンピックまでに街を「浄化」したいのか、ホームレスに対する締め出しが厳しいらしい。「家」が撤去されるリスクを考えると身軽な方が良いという合理的判断なのかもしれない。

明らかに彼らの荷物と思われる、ブルーシートで覆われた収納ケースや台車も見かけた。それらはメイン道路ではないが比較的人通りの多い歩道に置かれていて、おそらく「倉庫」として利用しているのだと思う。公園の茂みなどに隠してしまうと逆に盗まれやすいという経験則が働いていそうだ。

そんなこんなで3時過ぎまで歩いたが、言葉は悪いけどある種の宝探しゲームのような感覚があって、体感としてはあっという間の2時間だった。 その後はファミレスで集計や振り返りをして、4時過ぎには全ての作業が終わった。

その日は都内の何箇所かで同じ取り組みを同時開催していたのだが、合計で100人近くが参加していたそうだ。 僕はたまたまネットで見かけて応募してみたのだけれど、そういう人は珍しいらしい。僕のグループの人たちも、過去に参加経験があったり、運営と直接繋がりのあるような人だった。

一応ボランティアという名目だけれど、僕としては完全に興味本位での参加だったのであくまで「イベント」だと思っている。というかそのくらいの感覚の方が敷居が下がるし、結果的にこういう社会問題に関心をもつ人を増やせるんじゃないだろうか。調査自体も目的の一つではあるけれど、僕のように普段はホームレスとは何の関係もない(と思っている)人を巻き込んでいくことに大きな意味がある。

ただし、敷居を下げすぎるとそれはそれで問題になりそうなのが難しいところだ。ボランティアってなんか恥ずかしいからもっと軽い気持ちで参加できるようにしたいけれど、だからと言って遊びに来られては困る。そういう活動を示すちょうど良い言葉が日本語に無いのもまた問題か ...

2月3月は僕の自宅近くで開催されるようなので、都合が合えばまた参加してみようかと思う。

一応、詳しい調査結果と運営団体のサイトをのせておこう。 http://archcd.wixsite.com/arch

ストレスが必要

人よりもイライラすることが極端に少ないという自覚がある。それはストレス耐性があるというか我慢強いというか、そういうポジティブな性質なんだと納得していたけれど、最近はなんかちょっと違う気がしている。

僕に耐性がある理由がわからないし、実際これまで経験したことのないようなプレッシャーを真正面から受ければ、おそらく人並みには狼狽すると思う。そう、つまりそういう理不尽さや理想と食い違う出来事に対して「真正面」から対峙していないんじゃないか? ... そういう仮説を最近見出した。

自分に降りかかる災難を受け流すという技術は、なんとなく Life Hack 感があるけれど、実はそれによって自分の理想や信念を無意識に書き換えているとしたら、それはあまり良いことでは無いと思う。

誰しも動物的な本能よりも次元の高い理想があるからこそ、現実との差異を埋めようとするモチベーションが生まれるし、それにエネルギーを費やし生きていると思っている。それなのに現実に沿うように理想を捻じ曲げて無理やり納得するのは、まるで生きて死んでいるような感じだ。

そりゃ色々と勘案して最終的に妥協することはあるだろうけど、それを無意識にやってしまっていたとしたら理性はどこにあるって話だし、まあ端的に言って動物と同じだ。哲学的に書くなら「人間は常に理性によって自身の魂を震えさせ続けるべき」といったところだろうか。もしかしたらなんかの本で読んだ言い回しかも。

ともかく、こういう無意識に妥協する癖が染み付くと常に理想が現実に漸近してしまうので、そうなると新しいものを生み出すことはできないだろう。職業柄それはマズイし、人生的にもなかなか悲しい。

ということで、今年はもう少しストレスを感じる機会を増やしたいと思っている。

これまで色々なことから逃げ続けたせいで、気づけばストレス社会を欠片も感じない環境でぬくぬくと暮らしてしまっていた。まあ居心地は良いのだろうけど漠然とした不安はある。それをどうにかしていくのを今年の目標にしてみよう。

宗教や思想や自己啓発系の資料に当っても、ストレス社会を乗り切る方法は書いてあっても、その逆は全く見つからない。とりあえず知らない人と話したり新しい趣味を始めてみるとか、そういうことをすれば良いんだろうか。

そう考えると物凄い抵抗を感じる。これがストレスというやつなんだろうな。まあ良い機会だし、今年は積極的に辛い年にしてみよう。

コミッタになりたいらしい

先日「目標設定シート」なるものを会社で作成した。自分自身の中期・短期目標を設定し、それに対してどのように取り組んでいくか、ということを言語化して記録するものであるようだ。

ここでも散々書いてきたが、僕はこういったことを決めるのが苦手だ。というか確信を持って何か目標を掲げられた試しがない。だから就活や転職活動も苦労したし、「自分が何をしたいのか」という問答に対しては、死ぬまでに答えられればいいやという具合に半ば諦めている。

だから、今回もろくな目標をたてられず、その場しのぎで体裁の良いことを書いてやりすごした、というようなオチになるはずだったんだけど、そうはならず、なんと小さい目標を設定できた。何か自分の中で心境の変化があったんだろうか。それを少し考えてみる。

転職してからの半年が過ぎ、これまでひたすらプログラムを書いてきた。前職では社員数が一桁だったこともあってエンジニアリング以外の仕事も多かったから、それと比較すると日常的に書くコード量はかなり増えたと思う。

社内の他のメンバーの業務を十分に理解しきれていないのに、自分はコードを書いているだけでよいのだろうかという不安はありつつも、やはり自分で設計を考えて実装していくのは楽しかった。改めて自分はプログラミングが好きなんだと再認識した。

以前の自分との大きな違いは、オープンソースの存在を実感したことだろうか。転職してから他のメンバーのソースやライブラリの中身を読む機会が増えたからか、自分一人でただ開発をしているのではなくて、世界中の開発者の力が集結して、僕は初めてプロダクトを思いのまま開発できているという謙虚さのようなものを感じられた。

そしてオープンソース開発者への尊敬の念を感じたとき、それは自分もそう認識されたいという思いの裏返しであることに気づいた。どうやら僕はオープンソースのコミッタになりたかったらしい。

ということで、今までその日暮らし的にフラフラと生きてきた自分にとっては初めてとなる「目標設定」が完了した。

コミッタと言ってもピンキリだが、こういう具体的な目標だと具体的なアドバイスをくれる人は多いし、そのためにやるべきことも明確だから悩むことはなさそうだ。とりあえず、以前からなんとなくあったら良いなと思っていたちょっとしたライブラリを作ってみて、READMEをつけて公開してみよう。

しょぼいソースを公開したところで給料が上がるわけでもないし、誰かに認められるほどの技術だって全くもっていないが、今の僕の承認欲求レベルとしてはそれくらいで十分だろう。

自分にとって価値を感じるものが1つ見つかって、それがそのまま目標になった。また新しいフェーズの目標を考える際にも、この体験はヒントになりそうだ。