ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

どこまで当事者になればいい

「当事者意識を持て」とは、新社会人向けの研修かそういう類のセミナーではお決まりの文句だそうだ。つまり会社の事業や自分の仕事に対して、他人事と思うのではなく、全て自分に関係していると思い込んで取り組め、ということだろう。

じゃあ、どこからは他人事にしてもよいのか、その境界線はあるのか、という疑問が生まれる。

当事者意識を要求するその人は、果たしてどこまで当事者意識を持てているんだろうか。例えば上司が部下にそれを求めるのであれば、少なくとも上司は部下の人生に関わっているという意識を持たなきゃ話にならない。そして会社の事業に対する当事者意識も必要で、自分が暮らす社会に対する意識も無いといけない。なら世界はどうか。発展途上国のストリートチルドレンの人生にまで当事者意識を持つべきなんだろうか。

想像だけど、会社の研修で求められるのは、あくまで会社と会社に関連する物事に対する当事者意識だ。会社の正義としては当たり前の方針だと思うし、別にそれに反逆したいわけではないけど、やっぱりどこか滑稽に思える。意識の範囲を人から指定されるというのも妙だし、座学で教え込んで理解できる程度の意識なんて、何の意味も無さそうだからだ。

どうでもよくないこと

当事者意識が強い、と人から評価されたこともあったけど、強い弱いというか、自分にはそんな意識が一切無いような気もする。ヤケになっているだけかもしれないが、いつだって何もかもがどうだっていい、という諦めが常にあるので、言わば自分の思考以外全てが他人事なんだ。「どこまで当事者意識を持てばいい?」なんてことを疑問に思う時点で、そんな意識は全く無いということなんだろう。

そう考えていると、自分にとって「どうでもよくないこと」を見つけることが、当事者意識を持つということなんだと思った。どうやらこれは相当大変そうなので、当事者意識について考えるのはしばらく辞めておくことにする。

転職活動という趣味

面接というのは自分を見つめ直すいい機会になる。普段から自分を意識して生活することは難しいし、より深い答えは、やはり他人との問答、言葉のやりとりの中でこそ生まれるのだろうな。とか思ったりするのは、最近よく面談(0次面接?)に行っているからだ。

下手な志望動機を作るのはバカらしいので、面接前から「今やりたいことが無い」と断った上で、いつも担当者に会いに行く。そうすると批判されるどころか、親身になって相談にのってくれる人が多いことに驚く。それは、僕が選んでいる企業が数十名規模でベンチャー気質のある会社だからだろうか。それとも売り手市場という市況感によるものだろうか。

とりあえず堅苦しいやり取りは一切無いので、こういう転職活動はかなり楽だ。新卒向け面接でよくある、「御社の事業は…」とか「自己実現が…」とか定型文の応酬みたいなものも求められないので、純粋に面談を楽しむことができる。

恋をしたい

採用担当者から色々なパターンで突っ込まれると、自分が漠然と考えていることが、ふとしたきっかけで言葉になって現れたりするから面白い。

この間も「あなたにとって仕事とは何か」といった話の中で、「自分にはこれしか無いと思える仕事と出会いたい」と思い至り、つまりそれは「恋をしたい」ということです、なんて表現が口から出てきたりした。理想や快楽だけを夢想しているという点で、今の自分を正しく説明しているような気がして、妙に満足してしまった。

自己中なのか当事者意識が強いのか

いつも自分のことを自己中心的だと認識してきた。人のために何かするということはあっても、それは人のために「自分がしたいと思う」からやっているだけで、常に自分の意思だけを尊重して行動しているという自覚があるからだ。

この前、「自分はどんな人間だと思うか」という質問を受けた。この手のテーマはほぼ毎日自問自答しているつもりではあったけど、やはりこうして改めて聞かれると上手く答えられないものだ。苦労しながらも、上記の「自己中な自分」について話したところ、それは「当事者意識」というものに近い、と指摘された。

当事者意識と言うと凄くポジティブな印象を受けるので、なんかこう僕には相応しくない感じがする。そうやって自分に合っているかどうかが絶対基準である時点で、やっぱり自分は自己中なんです、というところで着地したのだけど、上手く伝わったんだろうか。言葉で考えていないことを人に説明するのは本当に大変だ。

ちやほやされたいだけ

あくまで面接ではなく面談なので、具体的な技術力の査定であったり、ガチな感じの質問はぶつけられない。むしろ、是非うちに来てください、なんて言われるものだからつい有頂天になってしまう。建前だとしても、チヤホヤされるのはやっぱり心地が良いし、知らない業界の話を好きなだけ聞けることがとても楽しい。

このまま「楽しい」だけを求めて彷徨っているわけにはいかない、と常識では理解しつつも、今できる精一杯がこのフラフラした感じであると思ってしまうのは、やっぱり逃げなんだろうか。

とりあえず毎週1社ぐらいのペースで、しばらくはあちこち彷徨ってみようと思う。「逃げ」だとしても、別にどっちでもいいことだ。

消滅しそうな会社で何をやるか

会社が無くなりそうだ。

これまでもベテラン社員から社長や経営陣への不信感があるという話は聞いていたし、人数が少ない割に風通しが悪いのでいつか崩壊するんだろうなあとも感じていたんだけど、今週で事態が一気に動いた。会社のプロダクトの95%を作り、運用し、管理していたエンジニアの先輩がトンズラしたのだ。

というのも、その先輩、以前会社を辞めさせられた人と共同で別会社を作っていたようなのだ。社長がそれを見つけ問いつめられたところ連絡がつかなくなり、代わりに弁護士から通達が来て、どうやら裁判沙汰になってしまうらしい。

僕は先輩を尊敬していたし人間的にも好きだったので、個人的には応援したいのだけれど、そうは言いつつも、会社での開発やリリース業務が完全にストップしてしまっているので社員としては複雑なところだ。

1年前に僕が入社して以来、何人もの人が辞めていき、遂にエンジニアは僕一人になってしまった。プロダクトの運用責任、開発方針の決定権、エンジニアの採用、全てが降ってくるんだろうけど、さて僕に何が出来るんだろうか。

ビジネスに正解なんて無いとは言うが、何が失敗なのかわからない状況が多すぎるのはどうなんだろうか。システムの設計や実装には、経験から来る局所解のようなものがあるはずなのに、それを相談する相手すらいないことに不安を感じるが、それはただの甘えなんだろうか。難しいところだ。

やるべきこと

実は来月、新人のエンジニアが入社することになっている。こんな状況だからこそ彼をそれなりのエンジニアに育て上げなきゃいけないし、少なくともそれは僕の責任だ。彼から「スキルは身に付いたんで辞めます」という言葉を聞くまでは頑張らないといけない。

気がかりなのはエンジニアの彼だけじゃない。エンジニアではないが、僕より後に入社した後輩が他に二人いる。今の絶望的な状況をある程度予想していて、それでもなお入社をお願いしたのは僕の方なので、彼らのこれからを考えるサポートをする責任がある。責任というか、僕自身がそうすべきだと思っている。

他人ごと

いつか崩壊するかも、なんて書いたが、本当は崩壊すべきだとさえ考えていたので、特に絶望は無い。後輩達のことを一切考えないのであれば、こういう会社の新陳代謝はあって然るべきだと思うし、社員の誰かが疲弊していることをトップが感知しようとせず、それによってどうにか成り立っている組織なんて、無くていい。

こういうことを考えていると、僕はやっぱり人ごととして考えてしまう部分があるのだなあと思う。だから頭だけで冷静に状況を楽しんでしまう。

社会や組織に対して自分とのつながりを感じられないからだろうか。会社が無くなったらどうしよう、と考える前に、無くなるべき会社は無くなるべき、という発想になる。こういう話は、特に社員には誤解されがちなので、なかなか言いにくい。

僕が会社に対して当事者意識が持てないのは、自分に対する当事者意識が強すぎるからなのかもしれない。究極的に自己中だという自覚はあるが、逆に全てが「自分ごと」なんだろうか。

ただ、後輩達には、僕と同じように考えてもらいたい。「会社のため」に縛られず、それを乗り越えて、その上で「自分がそうすべきだと思っている」と確信をもって言えるようになって欲しい。これからの数カ月で僕が「そうすべき」だと思うことは少し見えてきた。

転職活動中の面接官

会社で面接官として、求職者の人柄やスキルを見極めて合否を下すという役回りをしつつ、就業後には自分自身が求職者として他の会社を訪問するという裏と表を抱えながら働いている。コントのようだけど事実なのでどうにも笑えない。

面接はなかなか辛い。この会社で面接官をやるぐらいなら、面接される側の方がはるかにマシだと思える。

スキル面はまだいい。何が出来て何が出来ないかはある程度機会的にこなせるからだ。辛いのは、人物面の評価をするために僕自身が応えられないような質問をすることだ。将来どうなりたいかとか、どんなことをやり遂げたいかとか、そんなこと僕は未だにわからない。同席している他の面接官がそういう定番の質問を繰り出す度に、僕の方が問いつめられている気がして、その都度胃が痛くなる。

あと絶対的に辛いのは、わざわざ面接を受けに来てくれた人を仮に入社させたとして、それがその人を不幸にするんじゃないかという不安があることだ。普通の人事担当者は能力の高い人を採用し、その人が実際に会社で成果を出すことだけを気にすればよいが、僕の場合、その人は僕の隣で一緒に働くという大きな違いがある。自分が「辞めてしまってもいいかな」と思っている会社に、何も知らない後輩を雇い入れることなんて出来るはずがない。

人を増やして開発を加速したいという思いも少なからずあるが、この社長やこの会社の経営方針に従っモノを作ることが正義だと言い切れる人間はいるのだろうか、というこれもまた大きく矛盾する思いを僕は抱えている。人を雇いたい気持ちと雇ってはいけない気持ちは、どうクリアすればいいんだろう。

結局のところ自分の中の正義があやふやなんだ。社長に不信感を抱きつつも「会社の為」と割り切って行動している人もいるし、逆に在籍しながら完全に会社の方針に背き、自分やクライアントの為だけに働いている人もいる。僕はというと、どっちつかずの中途半端な状態で、意思が無いというより混在する意思の優先度が不明瞭というか、要するに支離滅裂なのだ。

『貧困』への興味は中学時代から?

以前から貧困問題やホームレスに興味があって、高架下でキャンプしてみたり炊き出しに行ったりしていた。臓器売買ビジネスや物乞い、レンタルチャイルドを扱ったルポ本なども結構読んできたけれど、別に世界を変えたいとかそういう大義がしっかりとあるわけじゃなく、不謹慎だけど本当に興味本位としか言いようが無い。

そういう傾向はいつからあるのかあらためて考えてみて、久々に思い出したのが中学生時代の卒業文集。学校生活の思い出とか将来の夢とかを書くあれに、僕は「南北問題に取り組みたい」と書いた。「環境問題等の国際的な課題に立ち向かうには、まずは全世界の人が経済的に同じ土俵にたたないと話が進まない」と恥ずかしげもなく豪語している。

当時は僕がそれをふざけて書いていたのだと、先生にも親にも指摘された。というか実際ふざけていたと思う。当時から既に今と同様に具体的な夢なんて全く無くて書きようがなかったし、部活動の思い出話なんかを記録に残す方が恥ずかしいと考えていた。不真面目で抜けてるヤツが変に背伸びして世界を変えたいと嘯き、それを一人で面白がっている痛いヤツ。僕に対する他人からの評価は概ねこんな感じだっただろう。

ただ目立ちたかっただけかもしれない。でもそれなら題材はいくらでもあったはずで、やっぱり僕は昔から貧困というキーワードに引っかかっていたような気がする。本当は誰よりもシンプルで真面目で、だけどそれを表現できる場所が無くて普通の不真面目を演じていたということだろうか (これは流石にいいように脚色しすぎだが)。

とにかく貧困に対する漠然とした関心は中学時代から今までずっと続いているらしく、多分これからも変わらないだろう。自分にもちょっとした軸があったようで少し救われた。

真面目さを素直に人に見せることは難しい。その葛藤は高校大学とずっとあって僕は未だにそれを上手く扱えていないけれど、無意識的にそれを隠してきたせいか、いつの間にか本当の真面目さを自分すら忘れていた。自分は真面目だと口で言うのは簡単だけれど、心の底から自分を肯定できるようになれればいいなと思う。