ニートワークエンジニア

浪人、留年、休学、中退、ニート、エンジニア。回り道人生を謳歌中

消滅しそうな会社で何をやるか

会社が無くなりそうだ。

これまでもベテラン社員から社長や経営陣への不信感があるという話は聞いていたし、人数が少ない割に風通しが悪いのでいつか崩壊するんだろうなあとも感じていたんだけど、今週で事態が一気に動いた。会社のプロダクトの95%を作り、運用し、管理していたエンジニアの先輩がトンズラしたのだ。

というのも、その先輩、以前会社を辞めさせられた人と共同で別会社を作っていたようなのだ。社長がそれを見つけ問いつめられたところ連絡がつかなくなり、代わりに弁護士から通達が来て、どうやら裁判沙汰になってしまうらしい。

僕は先輩を尊敬していたし人間的にも好きだったので、個人的には応援したいのだけれど、そうは言いつつも、会社での開発やリリース業務が完全にストップしてしまっているので社員としては複雑なところだ。

1年前に僕が入社して以来、何人もの人が辞めていき、遂にエンジニアは僕一人になってしまった。プロダクトの運用責任、開発方針の決定権、エンジニアの採用、全てが降ってくるんだろうけど、さて僕に何が出来るんだろうか。

ビジネスに正解なんて無いとは言うが、何が失敗なのかわからない状況が多すぎるのはどうなんだろうか。システムの設計や実装には、経験から来る局所解のようなものがあるはずなのに、それを相談する相手すらいないことに不安を感じるが、それはただの甘えなんだろうか。難しいところだ。

やるべきこと

実は来月、新人のエンジニアが入社することになっている。こんな状況だからこそ彼をそれなりのエンジニアに育て上げなきゃいけないし、少なくともそれは僕の責任だ。彼から「スキルは身に付いたんで辞めます」という言葉を聞くまでは頑張らないといけない。

気がかりなのはエンジニアの彼だけじゃない。エンジニアではないが、僕より後に入社した後輩が他に二人いる。今の絶望的な状況をある程度予想していて、それでもなお入社をお願いしたのは僕の方なので、彼らのこれからを考えるサポートをする責任がある。責任というか、僕自身がそうすべきだと思っている。

他人ごと

いつか崩壊するかも、なんて書いたが、本当は崩壊すべきだとさえ考えていたので、特に絶望は無い。後輩達のことを一切考えないのであれば、こういう会社の新陳代謝はあって然るべきだと思うし、社員の誰かが疲弊していることをトップが感知しようとせず、それによってどうにか成り立っている組織なんて、無くていい。

こういうことを考えていると、僕はやっぱり人ごととして考えてしまう部分があるのだなあと思う。だから頭だけで冷静に状況を楽しんでしまう。

社会や組織に対して自分とのつながりを感じられないからだろうか。会社が無くなったらどうしよう、と考える前に、無くなるべき会社は無くなるべき、という発想になる。こういう話は、特に社員には誤解されがちなので、なかなか言いにくい。

僕が会社に対して当事者意識が持てないのは、自分に対する当事者意識が強すぎるからなのかもしれない。究極的に自己中だという自覚はあるが、逆に全てが「自分ごと」なんだろうか。

ただ、後輩達には、僕と同じように考えてもらいたい。「会社のため」に縛られず、それを乗り越えて、その上で「自分がそうすべきだと思っている」と確信をもって言えるようになって欲しい。これからの数カ月で僕が「そうすべき」だと思うことは少し見えてきた。

転職活動中の面接官

会社で面接官として、求職者の人柄やスキルを見極めて合否を下すという役回りをしつつ、就業後には自分自身が求職者として他の会社を訪問するという裏と表を抱えながら働いている。コントのようだけど事実なのでどうにも笑えない。

面接はなかなか辛い。この会社で面接官をやるぐらいなら、面接される側の方がはるかにマシだと思える。

スキル面はまだいい。何が出来て何が出来ないかはある程度機会的にこなせるからだ。辛いのは、人物面の評価をするために僕自身が応えられないような質問をすることだ。将来どうなりたいかとか、どんなことをやり遂げたいかとか、そんなこと僕は未だにわからない。同席している他の面接官がそういう定番の質問を繰り出す度に、僕の方が問いつめられている気がして、その都度胃が痛くなる。

あと絶対的に辛いのは、わざわざ面接を受けに来てくれた人を仮に入社させたとして、それがその人を不幸にするんじゃないかという不安があることだ。普通の人事担当者は能力の高い人を採用し、その人が実際に会社で成果を出すことだけを気にすればよいが、僕の場合、その人は僕の隣で一緒に働くという大きな違いがある。自分が「辞めてしまってもいいかな」と思っている会社に、何も知らない後輩を雇い入れることなんて出来るはずがない。

人を増やして開発を加速したいという思いも少なからずあるが、この社長やこの会社の経営方針に従っモノを作ることが正義だと言い切れる人間はいるのだろうか、というこれもまた大きく矛盾する思いを僕は抱えている。人を雇いたい気持ちと雇ってはいけない気持ちは、どうクリアすればいいんだろう。

結局のところ自分の中の正義があやふやなんだ。社長に不信感を抱きつつも「会社の為」と割り切って行動している人もいるし、逆に在籍しながら完全に会社の方針に背き、自分やクライアントの為だけに働いている人もいる。僕はというと、どっちつかずの中途半端な状態で、意思が無いというより混在する意思の優先度が不明瞭というか、要するに支離滅裂なのだ。

『貧困』への興味は中学時代から?

以前から貧困問題やホームレスに興味があって、高架下でキャンプしてみたり炊き出しに行ったりしていた。臓器売買ビジネスや物乞い、レンタルチャイルドを扱ったルポ本なども結構読んできたけれど、別に世界を変えたいとかそういう大義がしっかりとあるわけじゃなく、不謹慎だけど本当に興味本位としか言いようが無い。

そういう傾向はいつからあるのかあらためて考えてみて、久々に思い出したのが中学生時代の卒業文集。学校生活の思い出とか将来の夢とかを書くあれに、僕は「南北問題に取り組みたい」と書いた。「環境問題等の国際的な課題に立ち向かうには、まずは全世界の人が経済的に同じ土俵にたたないと話が進まない」と恥ずかしげもなく豪語している。

当時は僕がそれをふざけて書いていたのだと、先生にも親にも指摘された。というか実際ふざけていたと思う。当時から既に今と同様に具体的な夢なんて全く無くて書きようがなかったし、部活動の思い出話なんかを記録に残す方が恥ずかしいと考えていた。不真面目で抜けてるヤツが変に背伸びして世界を変えたいと嘯き、それを一人で面白がっている痛いヤツ。僕に対する他人からの評価は概ねこんな感じだっただろう。

ただ目立ちたかっただけかもしれない。でもそれなら題材はいくらでもあったはずで、やっぱり僕は昔から貧困というキーワードに引っかかっていたような気がする。本当は誰よりもシンプルで真面目で、だけどそれを表現できる場所が無くて普通の不真面目を演じていたということだろうか (これは流石にいいように脚色しすぎだが)。

とにかく貧困に対する漠然とした関心は中学時代から今までずっと続いているらしく、多分これからも変わらないだろう。自分にもちょっとした軸があったようで少し救われた。

真面目さを素直に人に見せることは難しい。その葛藤は高校大学とずっとあって僕は未だにそれを上手く扱えていないけれど、無意識的にそれを隠してきたせいか、いつの間にか本当の真面目さを自分すら忘れていた。自分は真面目だと口で言うのは簡単だけれど、心の底から自分を肯定できるようになれればいいなと思う。

死ぬまでにやりたいことなんて無いけどそもそも死って何

よく自己啓発的なヤツで、「死ぬまでにやりたいことリストを作れ」みたいな説法があるけれど、僕は全然ピンとこない。そしてこれが本当に夢が全く無いからなのか、それとも自分の不可能性を認めたくないが為に無意識的に虚勢を張っているのかよくわからない。

そもそも死ぬことをイメージできていないという可能性もある。色々考えたけど今の僕の場合これが濃厚っぽい。自分が未来永劫に生き続けるなんて常識的にありえないことだとは理解できるけど、精神的にそれを認められない部分が確かにある (死ぬまでが「永遠」と仮定するなら「永遠に生きる」は真になってしまうという詭弁も面白いけどややこしくなるのでおいておこう)。

死を認識できているという思い込み

「氏ね」とか「死ねばいいのに」とか半ばスラングとして日常に溢れているけれど、僕は「死ぬ」という概念が不思議で仕方ない。生物種の新陳代謝として、個体が生まれては死に続けるという仕様が作られたのだと理屈では納得できる。ただ、人間は自分の死を認識できてしまっていることが妙に引っかかる。いや認識した気になっている、の方が適切だろうか。

みんな死を認識した気になっている、もしくは既に死を受け入れている (!) から「死ぬまでにやりたいこと」とか考えられるのだろうか。一方で僕はまず死がよくわからないし、自分が死ぬなんて思ってもいないから命の時間をどう使うという発想に至らない。

一般論はどうか知らないが、せっかく人間として生まれたのに死がわからないのは非常に残念なことのように思う。誰か教えて欲しい。哲学やら宗教をもっとちゃんと勉強するべきだろうか。

ただの屁理屈

下記のような屁理屈の迷路にハマっている感じもする。

死ぬとは、世界から切り離されること。ここまでは良いが次が問題で、世界とは自分が感覚している情景のみだという思い込みがある。これがあるので、自分が死ぬ瞬間に世界も消え失せるから切り離されるわけじゃない、という理屈になってしまっている。だから自分は死なない、というわけだ。

いつからこんな偏屈になってしまったのだろうと思い返してみると、そういや高校生の頃もこんなことをずっと考えていて、人が死ぬ直前と直後で質量が変化したというオカルトチックな実験の結果に惹かれたりした。生きている意味や価値が物理量で表現できたことに一時的に救われたのだと思う (なお科学的に根拠があるかは不明)。

悩める思春期の高校生としては健全だろうけど、10年近く経って未だに成長していないのはやっぱり何らかの病気なのかね。

自由過ぎる不自由さ

あなたは自由ですか?と聞かれれば大抵の人は不自由だと答えるそうだ。

一般的な自由のイメージは、好きな時に旅行できるとか好きなものを好きなだけ食べられるとか、そういう何でもできる状態としか考えられてないし、確かにそれだけなら不自由な人は多そうだ。

(自由 ⊆ 不自由) かつ (自由 ⊇ 不自由)

一方僕はというと、別に時間やお金の余裕があるわけじゃないけれど、極めて自由だと感じてしまう。

幸い五体満足で生まれてきて(味覚は弱い気がするが)、機能的に困ることはない。教育を受けることができた結果、字も読めるし勉強することに大したハードルも無い。

やりたいことがやれるかという観点でも、別に法を侵したり誰かを傷つけてまでどうしてもやりたいことなんてそもそも想像がつかないし、どうしようもないくらいの楽観主義がそうさせるのか、漠然と何でも出来る気もしている。

こうやってまとめてみるも自由としか言い様の無い状況だけれど、「自由」に付随するポジティブ感は何故だか感じることはできていない。そうして、これはつまり不自由なのか?という葛藤が常にある。「何をしてもよい」という自由は、同時に「拠り所となる制約すら無い」という不自由を生み出しているからだろうか。

無意識レベルの制御こそ自由

最近、ロボット工学博士である森政弘先生の本を読んだのだけれど、彼によると、自由とはフィギアスケートの選手のように、氷上のような不安定な環境において無意識レベルで繊細な「制御」ができている状態である、と言っていてこれが無性にしっくりきた。

不自由な状況を感じさせないような、のびのびとした振る舞い、それこそ僕が求める自由なのかもしれない。

仏教の色即是空、空即是色という、相反する二つが合わさって一つを成すという考え方と同じで、自由もまた不自由という真逆の性質があって初めて自由、または不自由を生じさせるのだろう。

そういう意味では、自由過ぎる不自由さを何となく知覚できてるので割りと惜しいところまで来ている気もするが、如何せん誰かの助言等で成果を確認する術が無いので、しばらくは同じところでぐるぐると廻ることになりそうだ。

自由の中の不自由、不自由の中の自由。こういうことをダラダラと悩むのは楽しい。